2008年11月27日木曜日

試験にでる英単語

久々のカタストロフ。
知識の崩壊と
メモリの残らない裸の王様。

キタキツネの鳴き声は、いまだかつて内董卓打倒の切り札として、この世の全てを包含したまま、この世を去ってしまった。飛び出せ青春とはならず、ここでこそ、意志の上にも三年。これが大切なのだ。

彼女を置き去りにしたまま旅を続けることは不可能かつ望むわけもないことであり。
切なる希望を言うとすれば、ただ、安穏と平安のうちに事が進み、次世代を思いながら去ることができるならばこれに越したことはない。

しかし、世の中そう甘くもないわけであり。
ひとつ気を引き締めて、何事にもかかる必要があるに違いない。

これからのことを思うと、多くの苦難しか想像できないわけであるが、それでもしばしの休息とねぎらいの時には、新たな発見と喜びと、そして愛情が存在することを祈る。

さて、ここまでの流れを整理しておこう。

レジスタにはAF、BC、DE、HL、IX、IYがあり、これにメモリをあわせたものが一時記憶領域として利用できる。このうちAはアキュレーションレジスタと呼ばれ、操作することができるのはこのレジスタのみである。つまり、データの格納以外のことは、他のレジスタにはできない。
Fはフラグレジスタと呼ばれ、Aレジスタに対して行った操作によって、変化するフラグが格納される場所である。Fにも8ビットの領域がある。詳細は次に繋ぐ。

メモリには16ビットのアドレスがあり、アドレスを指定することで、そのアドレスに8ビット(1バイト)の情報を格納することが可能である。

現在作成中のプログラムは、ソート処理を行うもので、起動時のパラメータとしてカンマ区切りで渡された数値を昇順でソートして表示するというもの。

最初につくったのは入力値をそのまま出力するという簡単なプログラムだった。

しかし、この段階で、ORG、CALL、RET、LD、CP、JP、ラベル、条件分岐などの基本的な操作をすべて使用することができた。このため、プロジェクトは速やかに終了するように思われたのであるが、ここからが問題山積みとなったのだ。

まず、命令にパラメータを渡す場合には、そのまま渡す場合と、括弧()をつけて渡す場合の二種類あり、そのまま渡すと、格納されている値がそのまま渡され、括弧つきだと格納されている値が指し示すアドレスに格納されている値が渡されることになる。つまり参照になるということ。

それから、処理中のコードは全てメモリに保管されている。これは当たり前のことなのだけれど、Javaを使っているとメモリの管理をそこまで意識することはないので、わかりづらいことが多い。たとえば、ORG命令によって、プログラム開始アドレスを指定したとして、次に続く一行は当然開始アドレスの次のアドレスを確保することになるのだろうけど、それが何バイト必要とする命令なのかは判らない。とここまで書いて思ったのだけれど、マシン後の対応表を見ればそれがわかるのかな。ほとんどの命令は、命令で1バイトパラメータ毎に、1バイト使用しているようなので、多くても3バイト程度の命令しかないのかもしれない。とはいえ、自由に使用できるめもり領域がどこからなのか、一見してわからないのはやはり厄介で、今回の場合には、入力値を格納する領域、入力値の格納されているアドレスを格納する領域、それぞれの入力値の桁数を格納する領域、入力値の数を格納する領域をそれぞれ準備する必要があったのだが、それを準備するアドレスをどこにするのか、これがもし、大きなプログラムであれば、プログラムのサイズによって、変化してくることになり、最終的に書いてみたら入りませんといったことも起こりえるではないか。という不安が頭をよぎった。

それから、PUSHとPOPはレジスタの情報を一時的に退避してくれる便利な命令だと思っていたのだけれど、復帰させる順番を間違えると、ちがう情報が帰ってきてしまうということも盲点だった。そもそもこれらの命令は、呼ばれるたびに保管場所を準備して、数珠繋ぎにデータを保管しているので、レジスタとリンクしているわけではないということなのだ。これは気をつけなければならないポイント。

Javaでのデバッグに慣れている自分としては、動かしながらつくるのが当然のことになってしまっていたが、処理の全体像を描けなければ、つくるのは難しい。これまでとは違った発想と丁寧さが必要になってくることは間違いない。さてどうしたものか。いまはフローチャートを作成しつつつくっていくことで、なんとか頭の整理を保っているけれども、この方法が一番良いのかどうかはわからない。

自分が作ろうとしているアルゴリズムをきちんと理解することがもっとも重要なことだと思われる。
そうしなければ、自分のコードが正しいのかどうかですらまったく判らないという状況に陥ってしまうことは請け合いである。

スティーブジョブズはイノベーションの方法を体系化することは、痛々しい努力だと言っていたけれど、自分としては何もないでは考えられないではないかと思ってしまう。それが、自分のなかだけの体系だとしても。。。

2008年11月12日水曜日

尊敬できるひと

上手い言葉はみつからないけれど、お世話になった。

わすれないように。
活かせるように。

2008年10月28日火曜日

葬儀屋

となりで葬儀があったらしい。
まったくしらなかった。。。

それを知ったのは、葬儀屋が葬儀のあとにアンケートをとりに来たからだった。

アンケートの内容は葬儀中、スタッフの出入りが激しかったことに対して、どんな感想をいだいたか?

というものだったわけだが、そもそも気づいていなかった僕には、なんとも答えようのないものだった。

問題は、アンケートをとりたいという用件を切り出した、葬儀屋の言葉が上手く聞き取れなかった点にある。

それまでの質問に対しては、聞き取ることもできたし、返答も間違えずにできたわけだが、なぜか、彼が用件を話し始めたとたんに、話がわからなくなってしまったのだ。

どういうわけか?

理由1)自分に関係のない話だと検討がついたので、興味を失い、無意識に話を聞くのをやめてしまった。
理由2)葬儀屋がぼそぼそと聞き取りにくく話した。

2)は確かにそうだったけど、1)もありそうな気がしますよね。最後まで話をきかないと。

2008年10月21日火曜日

怒りをぶつける

全体が見えないことと、それでもどうしようもなくいきなければならないことのはざまで、いきいきと姿をあらわすいろいろなものごとに、意気消沈するのは、いみもない時間間隔のなかでいかれたベクトルがさようしているからにほかならないのです。

真実はいきなり耳元でささやかれるものだし、インだ。

食い倒れ人形の診断書のなかで、気団進行をなかなかたのしませてもらえないのは、期待はずれのものごとをただただこなしているにすぎないのだ。

慎重になるべきところ、それは大事な局面にも関わらず、何も考える気力がわからないのは、いまだにそれを僕が引き受けているからだし、それが僕にとってなにか良いこととなるのかどうかは、僕にはわかりません。

といただされても、それをうんということはできないし、だからといって、死んだふりをするのは僕には不可能なことなのかもしれないと、ただただ、感じているのです。

ということは、僕には何ができるのか、それが問題だし、いましがた問題になっている出来事が、何を意味しているのかは、僕にはやっぱりわからないのです。

くりかえして言いますが、そもそも僕が考えることなど何もなかったのかもしれないと、ただただ、いみを考えているのは僕のせいかも知れません。

うっと惜しいと思いつつも、苛立ちを隠せないとき、くれずマートのもんじゃもじゃが顔面に迫ってくるのはなんとも耐え難い出来事であり、吐き気すら催すことがあるものです。

だからといって、それが何を意味するのかを誰かに伝えることは、僕にとってはあまりにもリスクの高い話なのかもしれませんね。。。

2008年10月11日土曜日

使命

そんな大それたものがあるのかどうかわからない。

志も必要だろう。

2008年10月10日金曜日

まだまだ一合目

一合目ではまずいもう少し行こう。

・一合目

人生の一合目
仕事の一合目

次の一手は?

理解の方法その1 やってみる

他人がつくった道具の複雑な操作方法を理解するために、それを使ってみるのは一番の近道。

1)操作する
2)結果を見る
3)問題があれば原因を探す、なければOK
3-1)すでにある知識であたりをつけて探す
3-2)問題箇所を特定する
3-2-1)物、時間、機能、場所、情報、等(歴史、用途?)の単位で分割する
3-2-2)分割したものを比較し、3-2-1に戻る
3-3)1に戻る

・問題の有無

問題の有無の判断基準は用途、安全性、大きさ、重さ、形、色、感触、等(歴史、その他感覚的なもの?)。つまり使う人によるって事。

・操作

押す、引く、叩く、回す、捻る、暖める、冷やす、繋ぐ、等

・理解(具体的/抽象的)

法則を知る
名付ける?

・リスク

道具が途中で壊れる可能性がある
用途が限られている場合にはマニュアルを読んだ方が時間の節約になる?

・用途

1)必要に応じて道具が生まれる
2)道具が応用されて別の用途が生まれる

これで覚える以外の方法をしらないと言ってもいいくらい。
できれば、概念を理解して、使い方と概念の両方がかみ合う形になれば、概念が一人歩きする可能性に希望が見出せるのではないかという淡い期待がある。しかし、そんな可能性はないのかもしれない。

使い方/概念 ≒ 具体的/抽象的

先にマニュアルを読むとどうなるか?おそらくそのとおりにやってだめなら、3)に移行する。
仕様書を読めば、抽象的理解の手助けになる。

ゴールは何かを生み出すこと、それを誰かに喜んでもらうことです。
遠いな。。。とほほ。。。

2008年10月9日木曜日

早いとこなんとかせなな

昨日から調べていたECサイトのエンジンを引き続き調べる。
BakeSaleというCakePHPをフレームワークとしたもの。

XAMPとCakePHPという組み合わせでデモの動作を確認するところまで持っていくのが目標。
XAMPの起動に手間取ってしまう。
バッチファイルを起動しては、設定ファイルのパスを書き換えるが、それがいらんからXAMPやろ、と思い立ってインストールルートを調べるとセットアップ用のバッチが見つかる、今まで書き換えた分無駄でした。
つまり、Apache上でPHPとMySQLがすぐに利用できる状態でパッケージされて提供されているのがXAMPなので、設定ファイルをいじるのはXAMPが提供している機能外の機能を利用するときだけだということを判っていながら、動かんからといきなりそこに手を出してしまった私の軽率は取り返しがつかないわけです。
マニュアルを読めという亡くなった祖父の言葉が頭をよぎりました。

XAMPが動いたところで、BakeSaleを配備しようとBakeSaleのサイトを訪れようとするが、音沙汰なし。
BakeSaleは先月公開されたばかりのようで、アクセス集中してるのかもしれない。
とにかく、これではインストールが進まないのでCakePHPのサイトでアプリケーションの配備方法を探すことにした。ここでも、マニュアルを探すという作業を省いてしまったことに後で気づくことになって後悔する。

CakePHPのマニュアルにしたがって、BakeSaleに準備されていたSQLを実行しようとしたところで、phpAdminが動かない。
MySQLを起動し忘れていただけだったのだが、ここでエラーメッセージが文字化けし、しばし別方向へ飛ばされる。一旦間をとって、MySQLを起動するとすんなり動く。文字化けもなし。

エラーメッセージの文字化けは無視することにして、懸案のSQLを実行して、いざBakeSaleを起動。
phpのエラーログが表示される。
テーブルがないらしい。見つかったSQLは全部実行したつもりだった。
もう一度さがしてみると、ありました。ありました。
ついでにマニュアルも見つかりました。。。

マニュアルどおりに実行してみましたが、それでも動かない。
動くには動いたんだけど画面の様子がどうもおかしい。

ひとまず、CakeとBakeSaleに問題を分割すべく、あたらしくCakePHPのアプリケーションをつくってみることにする。
チュートリアルを見ながらつくっていくと、最後にmod_rewriteの設定の話が出てくる。
ルーティングが上手く言ってないということは判っていたので、というのもリンク切れが続出、エラーログを見ても、まったくおかしなURLにリクエストが着ていたので、これはそうとしか考えられないということに。

httpd.confを見てみるとリライトモジュールのロードがコメントアウトしてあった。
XAMPのデフォルトはそうなのか、それともApacheのデフォルトがそうなのか。
つくってる人の顔が見えんというのはそこがわからんね。
そこが判ったらもう少し面白いのかもしれないね。

設定を直して起動したら、トップ画面は正常に表示された。

ここまできて、当初の目的だった、プログラマーではない人が利用するにはちょっと手がかかると判断して調査は中止。勉強になりました。
ECCubeにしとけばよかったか。。。

2008年9月30日火曜日

何かをあたえること

じつにすばらしいものを、私は今日いただきました。

しかし、これをいかに返せばいいのか、僕にはわかりません。
どうすれば、同じように、元気になってくれるでしょうか。

寝ない

寝不足と寝ないこと

寝不足は良くない、翌日の出来事が手におえない。
持ち越して寝るのは良くない、翌日にいろいろなことを持ち越す。

首が回らないときは、返済先をまとめて、こつこつ返す。
それしかない。

返済プランが必要だ。

2008年9月18日木曜日

今日の面接

今日は今日で新しい面接がある。

元の会社に似ている。。。

ただ、技術レベルは高そうだ。

ついていけるか。。。

あと、欧米の後追いからの脱却を標榜しているが、本当の意味で独自性が社長にあるのかどうか。
そこが問題になるのかな。

見てわかるのかも判らないけど。

自分ができることというと、書記とテスターくらい。あとメンテナンスかな。

なんともない

一昨日の面接まとめ。

彼が言っていたことはこういうことだと思う。

オープン系のプログラマと呼ばれる人たちの多くは、上級言語をベースにした開発しか知らない。
したがって言語の進歩を後追いしていくことに終始してしまい、言語を道具として利用することができないまま、言語に使われて、それに疲れて辞めていってしまう。

低級言語は、シンプルな命令セットしか用意されていないので、プログラムに個々人の能力差が出やすく、そこで切磋琢磨してきた人たちにとっては、上級言語はスマートな使いやすい道具としてある。

おそらくこの問題は大きな視点で見て一つ正しい。なぜなら、だからこそ、プログラマと言われる人たちは昔少なかったし、重宝されてきた。

しかし、一方で、個人的な問題。つまり、そもそも育ってきた環境や、現在おかれている状況の中で形成される自我もまた、言語を道具として利用する人たりえるかどうかの大きな基準となる。
なぜなら、上述の文脈における本当のプログラマ(彼はそれを技術者と呼んだ)たるためには、自分の意志を強く持ち、それを維持するだけの鍛錬、忍耐、突破を持続的に行うだけの強い何かが必要になってくるからだ。

では、僕は「技術者」にはなれないのか?

そこで彼は提案をしてくれた。組織にはいろいろなタイプの人間が必要とされているからだろう。

ここで言う技術者は、いわゆるわが道を行くタイプで、力強いが、独走しがちである。
そこで、いろいろな視点を提供してくれるチェック機構が外部に必要となる。
それを担う人間に求められるのは、持続的な技術の収集と蓄積、そして、それを引き出しにして問題の発生を未然に防いだり、発生した問題のフォローをすることだ。

この役割なら僕にもできるかもしれないと思った矢先、それなら元の会社でやってたことと変わらないじゃないか。ということに気づいた。。。

じゃあ戻るか。
戻らないかと誘いは来ているわけだし。

しかし、そうなると、私生活に影響が。。。

つづく

2008年9月17日水曜日

体制に影響なし

忌々しい限りの、日々の戯れに、生真面目な新幹線のダイヤのように、微塵も残っていない、関係性の飛騨をかんがみて、望むべくは、幸せであり、なにもかもそこに仕事がないことにゆらいするのか、しないのか、皆がみな行き止まりの快楽を禁止しているかのような、しらっばっくれた期待通りの身近な身辺の整理。

難しいことは何も判らないけれど、みんながみんなそれを期待しなくてもいいはずなのに、それを上手く使っていけないのは、単にそれが禁断症状に近いからなのかもしれない。

ぬかるみのなかで、いけたものと、いかれたものの、みじかな存在をうつうつと感じて置くのは、民衆心理の問題なのかもしれない。

10年後にはこの国は壊れてしまっているだろうと、ある人が言っていたけれど、あながち間違った話でもないように思う。

とんとん拍子で何かが進むはずもなく、ただ単にしんどいだけでもないだろう。

幸あれ。

イマジネーション

面接をうけた。

言いたいことは重々判るけど、自分にはいまのところどうしようもない感じでした。

技術者とコンサル。

外部にもつか、内部にもつか。。。

どちらも同じ結果なのか、それとも、僕の選択なのか。。。

仕事は何でもいたします。
われらはわれらで楽しみましょう。

2008年9月5日金曜日

光通信

忘れてはならない仕事のひとつが、電気、通信環境の整備。

フレッツ光の営業さんがやってきたので、我が家もこれを機に光通信に切り替えるかという話になり、しかし、光導入にそれほど積極的になる理由もなく、あえていえば、Wii買うなら欲しいよな、というところだろうか。

地デジ問題とか世の中ではお話が盛り上がっているようですが、詳しい話はつゆしらず、あまり気にもしていなかったら、なんと、アンテナまで新しくする必要があるというじゃないですか。光通信サービスを利用していれば、オプションとして地上波デジタル放送のIP再送信サービスを提供してくれるとのこと。
アンテナはですね。大家さんと掛け合わないといけないでしょうね。ということで、地デジ目的の加入はあまり考えられない。

ひとついえるのは、現行のYahooBB ADSL 50MBの利用料金とNTTの回線使用料をあわせると、フレッツ光と料金がほとんど変わらないというところ。

あとは、EO光という関西限定のサービスがあるんだけど、使い始めてから2年くらいはフレッツの方が安そうだ。

ルータの機能に一部面倒なところはあるみたいだけど、なんとかなるっちゃなる程度。

仕事決まってからにしたほうがいいかもねー。

2008年9月4日木曜日

マッチポンプと価値創造

仕事をふやして、じぶんで片付けることと、価値を創造することは紙一重のように見えるが、実はまったく違っているということが判る。

コストパフォーマンスが悪い物は、商品としてはいただけない。
では、何を改良するべきか?
おそらく時間を無駄にしないことが大切だ。

しかし、新しい発見や、物事のより深い理解のためには、なにもせずにボーっとしている時間がどうしても必要だ。ならば日々のルーチンワークはできるだけ、決まったフォーマットにのっとってすばやく終わらせることが大切になってくる。

というわけで、作業のマニュアルを個人的に作成することにしようと思う。

僕の担当している仕事は今のところ、

・洗濯
・そうじ
・夕食の準備

の三つである。

洗濯:

1:洗濯かごに入っている洗濯ものを洗濯機にいれる。
1-1:下着類や冬物のセーターはネットにいれる。
2:洗濯機に洗剤をいれる。
3:スイッチを入れる。
4:ブザーがなったら、たらいに洗い終わった洗濯物をうつす。
4-1:ブザーがなった後長時間放置すると、乾いた後の衣類から腐臭がすることがあるので、速やかに作業にうつること
5:二回に運ぶ。
6:ピンチハンガーを準備する。
7:ピンチハンガーに洗濯物を干す。
7-1:Tシャツは下向き
7-2:重いものほど両サイドに
8:ベランダにピンチハンガーを移動する。
9:全ての洗濯ものが乾燥したことを確認し、室内にピンチハンガーをとりいれる。
10:ピンチハンガーから洗濯物をとりはずす。
11:取り外した洗濯物をたたんで分別する。
11-1:衣類、パジャマ、タオル、寝具、クッションカバーに分別
12:それぞれを所定の位置に移動する。

以上

つづく

2008年9月3日水曜日

娑婆

いつか娑婆にでようと、そしたらビールを飲みつつ、映画を観ようとそう思い焦がれていたのは、しばらく前のことだけど、無作為につづる言葉と裏腹の価値観がすでに、闇雲な悪夢の垂れ流しであることに気づき始めた現在にあって、日記をつづることが少し準備を要することだということに気づいてしまった。

耕すことにしよう。

今日のテーマ:

収穫の準備、および収穫

本文:

というわけで、赤くなった唐辛子を収穫した、10本ほど。
にんにくとあわせて酢漬けにしたいと思っている。

それとは別に、新しい仕事を求めて勉強しているわけだけれど、基数変換のからくりを理解しようとしているうちに、数の世界の広さを知らされる、そのまま突き進もうとするも、あまりに大きく断念。ふがいない。
そうこうしているうちに、学習範囲をどう絞ればよいのか良く判らなくなって悩む。また、目標を絞る必要があるのかもしれない。

今、興味があるのは、家電製品やオーディオソフトの操作パネル。あと、ファームウェアにも少し興味がある。
そこから少し飛躍して、ウィジェットの作成は良いかもしれないと思う。

これらの分野では今まさにHTMLやJavascriptといったWebから生まれた表現が利用されているらしい。

少し前まで、僕はこれらの表現を用いてアプリケーションの開発に追われていた、開発に必要なほとんど全ての解をWeb上の情報に頼らざるをえなかったし、それで何とかなる部分は実際大きかった、僕がやるのは、アプリケーション固有のプロセスを少し書いてやればいいだけ、複雑なアルゴリズムなんて一切必要ない。はたして僕がプログラマーだったのかどうか、考えると暗くなるのであまり考えたくはないけれども、開発案件が徐々に情報の少ない分野に移ってきたころ、僕がまったくの役立たずになっていたことを考えると、そうでもないのだろうと思う。当時もそんなことを思い、この業界を離れることを決意したのだけれど、それは言語の変遷が非常に早く、自分がついていけないことに起因していると考えていた。しかし、今僕が興味を示しているのは、まさに、またしても、そういった変化の早い技術が利用されている分野であるわけだ。

では、なぜこの分野に興味を持つのかといえば、話は簡単だ。

・制御系の言語はやったことがない、Web系の応用なら何とか仕事が見つかるような気がする。
・現在のWeb上でのサービスは一通り出揃った感があり、パソコンとブラウザを利用した新しいサービスが今後増えるのかというと、それは疑問だし、自分もあまり利用しないという部分もある。それに対して、家電製品には今後も新しい機能が追加されるだろうし、それにともなって、操作するためのインターフェースも多様化してくるのではないだろうか。その部分ですこしでも仕事ができるならこんなに面白いことはないではないか。
・Web上で展開するサービスに比べて、操作パネルという限られた条件の下に開発が行える方が、目的がはっきりしていて考えやすいではないか。
・プログラマとして食べて行きたいわけで、後はSE、PMにというところまではまだ考えられない。

これに対して、

ECMAScriptはインターネット上での情報伝達フォーマットとして誕生し、Webクライアントの高性能化とともに情報閲覧や情報操作のためのインターフェースとしての豊かな表現方法を獲得していった、これには高速情報伝達を武器とするインターネットの普及が大きく貢献したわけであるが、もともと直感的な操作性を追及するために生み出されてきた表現によって、現代人のもつ視角は大きく変化させられることとなったわけである。

つまり、技術のオープン化による進化の高速化によって達成されたものであり、今後も激しく変化していく表現であるということですな。

そんなところに戻っていってついていけるのか?俺

ここまできてふと思う。情報処理の基礎理論はいったい何の役に立つのか。僕が求めていた技術者としての基礎とはいったいなんなのだろうか?

おそらく、プロセッサとメモリとディスクを連携させるためのもっとも原初的なプロセスが現在の高級言語に如何にして応用されてきたのか。それを知ることで、新しい環境や言語の根本的な概念の理解をたやすくし表層的な概念の理解とともに、未知の問題に対する柔軟な解法を生み出すだけの筋肉を鍛えることなのだろう。

つまり筋トレですな。
つまりついていけないなら、ついていけるようになろうと。
しんどい選択ですな。

つづく

2008年8月29日金曜日

仕事のことを考えると

今私が言語化できることの全て、が私の能力だと考えると、やはり日々の作業の中で勘を鈍らせないことは非常に重要なことだろう。

ひらめきと、体系的な知識の両方を活用して、はじめて納得は生まれるような気がするし、おそらくそのためには作業と反省の反復がどうしても必要になってくる。

体系的知識とは知識を蓄積、整理、活用して初めて身につくものであって、まったくもって、客観的なものとはいいがたく、それを勘違いしないことが大切だろうな。

リラックスと緊張の切り替え

気持ちの切り替えが下手だと感じる。

今はリラックスする時間ではない。

今は緊張する時間ではない。

それは判っていても、その場で解決しておかなければ、あとで思い出せないような気がしてしまう。

そうしているうちに、自分の生活のリズムと、考えるペースが合わなくなってくる。

早すぎて遅いのか、遅すぎて早いのか、よくわからんけど、つまり速度で説明してもあまり意味ないのかな。

自分が何かをわかっていると思い込まないことが大切なのだとすると、その場でできることは限られているし、それが人に迷惑をかけることなのだとすると、相手にされなくなることもあるかもしれない。

だったら、中途半端に続けるよりも、ばっさりと切り捨てて、細々と生きていくしかないのだろうか。

師匠の言葉、接続せよ研究機械

やっぱりよくわからんね。

知識は増やしたほうが良いだろうし、考えられるときは考えよう。

2008年8月27日水曜日

飽き性は直るか

怒りを殺すことと、感受性の欠如は反比例の関係にあると思う。
個人的には。

それはそれとして、僕が生きていることには何のメリットもないわけであるが、かといって、僕の趣味がそれで変わるわけではない。

意味はないのかもしれないけれど、混乱した意識のなかからただたれ流れてくる言葉の端々に、奇妙な関連性を見出そうとする、一連の発散作業は、僕にとって非常に重要なことなのだ。

乱れ打ちする言葉のなかから、なかからというか、乱れ打ちする言葉を誰かが受け取るはずもなく、また、うけとってはならない。それは、死を意味する。大げさに言えば。。。

闇雲に仕事をこなしていくことに何のメリットもないだろうかあるだろうか。

幸せへの渇望を長々と耽溺すべきものとして享受することは、はなはだ、いかれた物言いのように思える。すなわち、交通事故で死なない限りは、何らかの感動も、そこに用意されるに違いない。

みだれても、くずれても、いかがわしい幸せなどは何もないといっていい。

今日の夕食は何にしようか。。。

米にするか、麺にするか。
米だろうな。
そういえば、そろそろ米がなくなってきていた。
今日は米を買おう。

なす食おう。
チーズのせて焼くか。
あと、きゅうりとトマトも。
これは生で。
それからキャベツを炒めよう。

うん。

そうすると、汁物が必要になるね。

懸案のつみれ汁にしよう。

それでいいかなー。

いいだろう。
そうだろう。

2008年8月20日水曜日

青唐辛子の食べ過ぎに注意

支離滅裂、断続的生活のなかで、ゆったりとした空気に浸るここちよさ。
贅沢な話だとは思いつつ。

さてでは、次の一手は?

洗濯。
かたづけ。
そうじ。
夕食の準備。

とにかく物が多い。

整理もできてないし。。。

2008年7月20日日曜日

今日の出来事

結構早起きする。

朝食はいい感じ。

午前中は暇をもてあます。

祖母から蜂蜜をいただく。
北九州を去るのだ。
たまには帰る。

午後から用事を済ませる。
夕食はうなぎ。
おいしくいただく。

疲労がたまる。

2008年6月11日水曜日

地道な努力

地道な努力を惜しまないとは、
すなわち、やるべき仕事を怠らないことである。ような気がする。
探せば、やるべきことはいくらでもある。
手に負えないこともいくらでもある。

朝食;昼食;なし

梅酒をつける、初めてだったのでいろいろ手間取る。
へたをきれいに取り除いて、氷砂糖と一緒にホワイトリカーに漬け込む時間はなんとも快感。
ちなみに、梅1キロに氷砂糖600、ホワイトリカー(35度)1.8リットルでつけてみた、甘すぎないかすこし心配。

伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」を読み始める。
おもしろい。
いまのところ、登場人物の特殊能力がおもしろい。
あと、この人の作品は世間の捉え方が健全な気がする。

彼女を駅まで迎えにいく、彼女の到着がおくれたので、立ち読み。
井上雅彦が黒板に描いたスラムダンクをちら見する。
おもしろそうだった。

本屋ですれ違った男性二人組みが、いま、茂木健一郎が熱いと言っていた。
そうかもと思った。

いろいろ見聞して、彼女に会う。

二人で、買い物をして帰る。

夕食:
豚挽き肉のカレー
トマトとセロリの冷製スープ

うまし。
カレーは塩と油を減らせば文句なし。
スープはトマトの酸味が物足りなかった。

彼女とテレビを眺め、風呂に入る。
タイのハーブボールというものを浮かべてみた。
薬湯のような香りがなんとも疲れを取ってくれるようで、ありがたい。
のどがいたいので、ティートゥリーのエッセンスを溶いた水でうがいする。にがい。

2008年6月10日火曜日

僕は別に嫌いにはならないけれど

そういう話はよくわかりません。

起床後、ごみだしして、彼女を会社まで送る。
昔の会社の社長と遭遇する。
挨拶して、別れる。

帰宅途中にマクドナルドで朝食をとる。

朝食:
ソーセージエッグマフィン
ハッシュドポテト
コーヒー

たまに食べたくなりますね。
やっぱり。

家で漫画を読む。
面白いが、峠は越えた。
最後まで読むべきか否か。。。

洗濯して、植物に水をやる。

スーパーで買い物。
紅しょうが
にんじん
みょうが
豚肉を購入する。

夕食:
焼きそば
やきめし
ひややっこ

なんだこのメニューは!

彼女に編み物に関して教わる。

2008年6月9日月曜日

並大抵のことではない

日々の経験のなかで、とりわけ自分の本性をまざまざと見せ付けられる経験は、
当初にはつらく、自己嫌悪を伴うものだけれど、振り返ってみるとそれがあるからこそ、
生きることに疑問の余地を残さないという意味で、貴重なものだ。
あの出来事にかかわった全ての人たちに感謝する。

彼女と一緒に起床するも、まぶたは上がらず、昼間で眠る。

昼食:
大根の味噌汁(のこりもの)
白米

梅干

残り物の味噌汁はうまくない。

鏡に映ったひげ面の汚い顔に絶望し、ひげをそる。
何事も大げさな、と、また落ち込む。

さっぱりしたところで、洗濯機をまわし、漫画の続きを読む。

当時読んでいたよりも、内容を理解する。

やっぱり、繰り返し読む必要がある。

昼寝する。

夕食:
茹で野菜の中華風サラダ
もやしのナムル
焼き飯

気がつけば中華であった。

CHANGEと恋するハイエナを彼女と見る。
ドラマはおもしろい。

二度目の入浴。
やはり、湯船はよい。

死なないまでも、活きない

もしかしたら、
なにか、とほうもない仕事のために、うまれてきたのかもしれないと、思ったこともあるけれど、
どうやら、本当に途方もない話のようだ。

朝食:
白米、大根の味噌汁、納豆、煮豆、梅干、冷奴
うまし。
器の力を教わる。

洗濯物を干して、漫画を読む。
とても面白い。

昨日植え替えた観葉植物と野菜の苗を移動。
葉っぱが活き活きとして美しい。
それだけで嬉しくなるのはなんとも年老いたなと感じる。
さみしいが、それも感動があるだけ悪くない。

スーパーマーケットで買い物。
彼女が欲しがっていためだかを四匹購入。
他、ゴミ箱、食品。

夕食:
お好み焼き

そばを混ぜると、ボリュームは出るが、なにを食べているのか判らなくなるので、
今後は、お好み焼きと、やきそば、別々、につくることにする。

バレーボール観戦。
選手を大分覚える。
斉藤選手の愛称がノブコフだったことを思い出す。
引退されるらしいけど、最後までがんばって欲しいです。

佐藤浩市と三谷幸喜は最近テレビにしょっちゅう出てるけど、
いい年したおっさんが、はじけている姿は、仕事なんだろうけど、おもしろいと思った。

漫画を読んで寝る。
彼女は寝がけにワインを飲み始める。
末恐ろしい。。。

2008年5月28日水曜日

無駄を省く

透き通った夜空の向こうに、僕が見たものは、唯一、それなりに全うな人生を歩むべく、
好き好きの宝を愛しつづけることなのかもしれないと、しばし、傍観するも、
もはや一刻の猶予もなく、死んだも同然の僕の体は、なぜか、識字率の高さを、
彼らの、せなかに、背負っているのである。

どうせ背負うなら、重いものを背負ったほうがいいのかもしれない。

そうすれば、動かなくてすむ。
一歩も。

僕の心は細く短く、祖母のいうことは、でたらめだった。

今は本当かも知れないとも思う。

詳細設計とはなにか?

プログラミングできるレベルまで、設計書を詳細化することである。

それは、僕にはできないだろう。

なぜか?

できないからだ。

なぜか?

やりたくないからだ。

設計書なんかみたくもねー。

じゃあ、何で食っていくんだ?

なんでもやらにゃー。

時間がゆるすなら。
責任者がはなれる、
そのかわりに、僕がその部分の仕様を管理する。

それを、リーダーに伝える。

あす、上司にやめることを伝える。

仕事の有無を確認する。

あれば、それをやる。

なければ、帰る。

夕方待ち合わせ。

最寄駅。

何時だ?

時間を確認する。

リーダーに明後日は休めるか聞く。

よければ、明後日はやすむ。

だめなら、明後日は、出勤する。

2008年5月24日土曜日

試合中は何をしていけば喜んでもらえるか、さらには、自分の目標を完成させられるか

にわか知識ではどうしようもない。

いままでに培ってきたものがためされる。

しかし、手元にはなにもない。

ただ、絶望だけ、あるいは、希望をのこすのみか。

身近な誘惑に身を任せるよりは、

しばしの休息と、あらたな戦いに、挑むことが、今のわたしにできるすべてだと。

むにゃむにゃ。

しらばっくれてもしかたがない。

いや、仕方があったのかもしれない。

けれども、知性と努力の両方でもって、

何かを成し遂げたいと、今でも少し思っているのは本当だ。

真実はどこにもない。あってほしいが。。。。

爛々と照りつける太陽の光が、僕の頬をぬらす涙とともに、僕を慰めてはくれるものの。

無駄に生きていたいとは思わないのも事実。

向かい風の中で立ち止まるためには、常に前進する必要があるのだ。

のどかな光につつまれて。

2008年5月6日火曜日

ばかじゃないの?

いたずらに、厳しい言葉を投げかけて、愛をわけてくれたところで、
今の自分が好きだと思っている男に道は開かないと、誰かがいったのだが、
僕は今の自分を越えて、先へ進みたいと今でも思っています。

人の要請にこたえて仕事をなしていくことに、希望を見出すしかない状況なのです。

そのためには、よく聞き、よく動くことが大切です。

それを持ってしか、僕が生き残るすべはないでしょう。

今しがたも、絶望のふちにいたのですが、
それでも、人に助けられて、何とか踏みとどまっています。

どうか、生きていてください。

そして、また、いつか、会って下さい。

あーりしゃん

きっせぱーいういどせむなげほゆえ

海の巫女ソメイヨシノ梅くらげ。

さんさんと空からやってくる波間の浜辺。

くいついたらはなさない。

無駄なことはやってもいいが、たのしむ。

いたるところから、非難轟々。

嵐の中をすすむ、初陣の将。

むなしく散り行くのみ。

北風に請われて、旅立つも、孤独に打ちひしがれて、何者も受け入れがたく。

愛をもとめて、宙をさまようも、

だれも振り向きすらしない。

そんな仕事をやり遂げられるなら、未だかつて、やってきたのは、診断された病身の男の、
たわごとにすぎない。

蜜のような、響きのなかで、遠くからやってきた確かな手ごたえは、一瞬にして別の宇宙へと飛び去っていってしまった。

ある、晴れた日の午後、美しい日常を分け与えてくれるのは、だれでもなく、己自身である。

無駄な足掻きと知りつつも、何かによりそい、生きていこうとする男のはなし。

2008年5月1日木曜日

たんたたたたんたんたんたん

無理強いすることなかれ。
去るものは追わず、来るものは拒まず。

類転々と、さまざまな思惑が揺れ動く中を、くらげのように浮遊しながら、明日のわが身を呪うことなく。
そのとき、刻印された記憶から、多くの飛翔を成し遂げられるだけの力が、わが身にまだ残されていることを感謝し、日没を希望にかえるのだ。

みんなおんなじ。

黄緑の誘惑は、サラセニアンとへドリアン女王を指すが、
彼らの誘惑に身を任せることは、彼らを裏切ることになることを心せよ。
彼らの美しさを甘く見てはならない。

そういうことだったのだ。

ならば、私は何をもとめ、何を受け入れようか?

2008年4月24日木曜日

とどめを刺す

むちゃみゅちゃやったろうやんけ。
そんな気分になるアル注人生。

ドンでもないことになることが目に見えるだけにちょっとこわい。

できれば、みんなが幸せなまま。

僕も幸せになりたいでやんす。

ドロンジョサマとねんごろになりたいでやんす。

2008年4月23日水曜日

みんなの歌

いつのひか、この場所であえるなら。
やりなおそう。

こわれかけた。

真夏の恋人はぬーん。

奇印良品。

負けて何品?

仕事は仕事。僕は僕。

みなが、みな。

宴を催していたいわけではない。

鏃のわたしの歩く先に。

君は光をみているのか。

それとも、影をふんでいるのか。

意味不明である。

ぬたぬたぬた

もでると、くらべたら、なおかつ、くだらない、あほうであったと、何を解釈したものか。。。
血みどろの争いの果てに、くだくだと、信心を深めていることが、なにを争っていたのか。
それすら不明であるところにこの話の不可解な点があることは間違いないのである。

そうなったときに、何がゆるされて、何が許されないのか。

それを許容する心が僕にあるのか、ないのか。

痛々しいポエムをつづる余裕はなく。
ただ、白黒の悲喜こもごもを、いたるところにばら撒いている場合では、ましてやない。

きみが、何をしり、何をおそれているのか、僕にはわからないが、
死んだ男の話をもちだして、いったい何を楽しもうというのか。あるいはそうでないのか。

僕は君を恐れていたのだ。
その恐怖心は僕にも計り知れないものだった。

人はいつか死ぬ。

しかし、今はしなないということを。
身をもって知っているのは君ではなかったのか。

情報の力を侮っているのは、僕のほうかもしれない。
そうでないかもしれない。

ここまで、引き上げてくれたあなたの力に感謝し。
そして、ここを引き上げなければならないときなのかもしれない。

痛みをわすれることなく、痛みをわすれることなく。

2008年4月21日月曜日

ひさしぶりに

くどかれ上手なほうがいい。。。。

無駄なあがきはよして、さっさと人生終わらせろなんて、だれもいってねーーーーー。
食い扶持探して、手に余る、幸せさがしてなにがわるい!

そろそろ、歌のひとつも歌って、気楽な旅路を楽しみたくなった今日この頃です。

2008年4月16日水曜日

くまだ

無理無理いってる男と女の末席は
あたたまってるなー。

2008年4月6日日曜日

価値創造とコミュニケーション

みせないこと

創造すること

表現することは

それぞれ

ある

2008年4月3日木曜日

雲の中の憂鬱

無駄な努力と思いつつできることは何でもやった。
そうおもっていたけれど、どうやら、彼はまだ僕になにかやらせたいらしい。
あるいは、僕が沿う思っているといってもいい。
どっちにしろおなじことのような気がするからだ。

言葉の力はすさまじい。
ときに、言葉によって生かされているのではないかと思うほどだ。

むかしから、難しいことを考えては悦に入る癖は直ってないけれど、
そのくせ、深いことはまったく考えていないことに気づかされたのは、つい最近のことだ。

難しいことを考えることで、向き合うべき難題を避けてきた、そのために無駄なことをたくさんやった。
そう後悔してきたのだ。

しかし、強さは得たのかもしれない。
すこし、強くなれたのかもしれない。

そう考えるのは、甘いだろうか。
おそらく甘いだろう。

それでも希望を求め続けることでしか、生きることはできないということは、
十分に理解している、いや、多少理解できるようになった。

そういうことだ。

2008年3月18日火曜日

盗人竹だけ死

たけちゃんは僕の始めての友達だったひとだ。
まったく、文字通り人生で最初の友達といっていいと思う。
今は、連絡をとってないので、友達といえるかどうかはわからない。
近況を聞くことはあるけど、いろいろなことがあるみたいで、それでも本人は幸せなのかもしれないから、
なおさらなんともいえないのだけれど、元気でいてほしいと思う。今思った。

苦しいときにこそ、救いの手は差し伸べられるものだということは、信じていないけど。
たまにはそういう時もある。

今日はそういう日だった。

彼女が言うには、僕はとてもいい人だという評判が、一部にあるらしいのだ。
はっきり言って、自分はそんな善人でもないし。むしろ偽善者だなーといつも思うのだけれど。
しかし、いい人だといわれて、うれしくなるのは。
やっぱり、僕がいい人に観られたいからなのだろう。
そうだな。悪人はかっこいいけれど、僕にはなれないな。

そんなことを思いながら。

彼女への気持ちを再確認した今晩でした。

2008年3月14日金曜日

論陣を引くということ

カナダ、体、かんだ、神田、噛んだ、

のんだ、もんだ、すった、なめた、くるった、しんだ、うまれた、ないた、わらった、

食いすぎた、はらへった、へたくそ、うまのくそ、くじびき、あたったことねー。

みだら、さみーんだ。;

話を聞く。

間を合わせる。

うまくいけ。
うまくいく。

ただのむ。
たたずむ。

くみする。

愛する。

さようなら。

また明日。

やっと終末だー。

あ、字が違うよ。

2008年3月10日月曜日

むだづかいは悪か

酢の物となまこ酢は同じ酢を調味料として使用する、酢の物と考えてみる。
しかし、二つの間には大きく違う点がいくつかある。

まず、なまこ酢には、基本的に薬味以外の菜類は入っていないのに対し、いわゆる酢の物たとえば、わかめや大根などの根菜類の酢の物には、菜類以外の食物は少し入っているか、まったく入っていない。

そして、いわゆる酢の物はビールのつまみとしては、一味欠く感があるのに対し、なまこ酢はつまみとして絶品である。

もちろん、そこには主観が入っていて、酢の物とビールが大好きという方もおられるであろうし、多分会うのだろうけれど、何がいいたいかというと、なまこ酢はうまいということがいいたいのだ。

冬になると、食卓に並ぶなまこ酢は私の大好物で、これが出てくると、なんとも今日は贅沢な日だなと思ってしまうのです。

あのこりこりとした食感と磯の風味がなんともいいですな。

今日、クレジットカードの明細をみたら、210000も使ってました。
スーツ買ったり、しょっちゅう新幹線のったりしてたからなー。

まあ、いいってことで。

2008年3月9日日曜日

くえくえさんごじょ

とんだばやし。

苦し紛れの、すばらしい花火のように、くいだおれ人形。
そうだね。

昔話に花をさかせて、食いしんぼうの、夏祭りは、この世のものとは思えぬ、澄み切った名古屋の空を
覆い隠しているに違いない。

無駄話をつれづれに続けていくのは、僕の本来やりたかったことではないのだが、
遠い昔の思い出は、使いようによっては、生きる糧になることを、誰かが語っていたのだけれど、
僕にはそれが、現実味を帯びてこないのはなぜだろうか。

感謝と憂いというふたつの、間隔が僕をかき混ぜるが、
とくに憂いだけが、我々には、必要なものなのかもしれないのだ。

彼女は子供を欲しているだろうか。
それとも、いないだろうか。

これからさき、いったいどうなることやら。

2008年3月8日土曜日

どうなる

満足に一貫性ももてない日々、なおかつ、周りとの関係はわるくなるばかり、
こんなことではいかんと、日々苦悩する毎日だが、話は膨らむばかりで一向に解決策が見当たらん、
確信や納得や満足を求めすぎなのか、それとも勘違いが大きいのか、そこが問題だ。

いまさら話の捉え方を間違えてみたところで、なんの感慨もないのが、私の悪い癖かもしれない。
うまく捕らえることに関しては、楽しみ上手ではあったはずなのだが、
今後のわたしの体験が、どういう結末を迎えるのかが気がかりでならない。

そうはいっても、日々の暮らしは悪くないものだ。

毎日毎日、続けていく必要のある作業を、ただ、たんたんと繰り返していくことを旨として、
精進するしかないのだ。

どんなときも。
どんなときも。

ぼくが、僕らしくあるために。

好きなことは隙と、いえる気持ち抱きしめてタイ。
はぁーー。

2008年2月27日水曜日

のんのん

くるしまぎれに開き直ってみたけれど、そう物事はうまくいかないもので、それはそれで、当然のことと受け入れられそうな気もするけれど、そのあとどんなもんだろうね。

そんなことを考えているわけだから、いまのところまだ余裕があるのかな。

こうなったら、やることなすこと、ねこまっしぐらかもしれんけど、どうなんだろうね。

はっきりとした確証がないんですよね。
たしかに。

でもね。

しぶしぶながらも、いるところにいなきゃーさ、仕事になんないしさ、立ち向かうしかないじゃないですか。
そんなところじゃないんでしょうか。

2008年2月25日月曜日

わすれていた。

今日は叔父が癌の切除手術を受ける日でもあったのだ。

ご無事で。
こういうときはそういうらしい。

しかし、がんばれと、彼にはそういいたい。
なぜなら、彼が僕には想像を絶する戦いを続けてきたことを、おぼろげながらも僕は知っているからだ。

素直にエールを送りたい。

がんばれ。

ミュージック

うるわしい、日々の追憶を書きとめ始めて、はや数年の月日はたってないけれども、そんな気になるのは、ある時期に教えられたいろんな物事の整理がついたからなのかもしれない。

今日僕は31歳になったわけだけれども、それなりの努力を惜しまない決意ができたのではないだろうか。
今選択している道が、正しい道なのかどうか、もうしばらく時間を置いて、考えていく必要があるだろう。しかし、この選択がいかなる意味を持っているのか知るためには、もうしばらく待ってみようと思っているしだいだ。

来る日も来る日も、単調な毎日を過ごすことになるかもしれない。
しかし、それを受け入れる覚悟は、今のところできているような気がするのだ。

無駄な努力と知りつつも、それを続けることに意味はないだろうか。
あるいは、あるだろうか。

時間を見失う直前にかつてみた奇跡の記憶は、今もうしなわれたわけではない。
しかし、それが奇跡と呼ぶにふさわしい、華やかさと、あたらしさを持っていたとはいえ。
僕が生まれてきた理由と呼ぶことはできないものだった。それは間違いない。

それならば、ゆーみんが歌ったように、新でも輝きはもどらないことを、真摯に受け止めて、彼らのために生きてみるもの悪くない。

そう思えた今日だった。

誕生日かー。

2008年2月20日水曜日

遊びに行くのは疲れるニャー

来る日も来る日も、体力と気力の回復を最優先に考える日々。
まさに、これ、プロレタリアートな毎日であります。

これで、何か、結果がついてくるならいいんだけど。
そんなこと言う前にやれって話でね。

意志の力が求められております。

がんばります。

あ、仕事はじまったんですよね。

2008年2月13日水曜日

うんともすんとも

いわんけど、そうでもない人が、そうでもあるひとと、何とかしたいと思ったときに、困った事態が発生するのはどういったわけだろうか。

無駄な努力としりつつも、生まれつきそうであったところの、砕けた対応を、えんえんとさせられ続けた人々は、どこからどこまで、うまれもったものであるのか、わからんといえばわからんし、わかるといえばわかるような気もするのだ。

2008年2月12日火曜日

浮遊感はあるが、これが果たして現実か?

むなしいことはないけれど、実感があるわけでもない。
特に何も問題はないような、それでいて、なにか重要なことを見落としているようなこの感じ。
いったいなんでしょうか。

ところで、下関シティには唐戸市場というところがあるのですが、そこはいうなれば魚市場です。
魚市場なんですが、二階に併設されている食堂街には観光客が多く訪れ、一般の人も市場で買い物できたりします。すし屋が人気のようですが、今日は別の食堂へ入ってみたところ、うにが一皿ついてくる、うに定食が1500円と、リーズナブルなお値段でいただくことができました。おいしかったです。ごちそうさまでした。

帰りに百貨店で靴を購入。いよいよ、来週頭から仕事が始まります。
果たしてうまくいくんでしょうかね。
うーむ。

組することのたやすさと、危険と、そして重要性について

僕がもとめていること、日々求めていることは、かなりシンプルで単純なものだ。
愛する人々が、健康で生きていてくれさえすればそれでいいのだ。

しかし、それとて、いつまでもやっていけることなのかどうか、僕にはわからない。
存在の耐え難い重さといってしまえばそれまでかもしれないが、重さは僕を死に導く気がしてならない。
しかし、同様に、軽さは、呪いを求めている気もしないでもない。非道徳性と不文律の家庭的何かを追い求めてはきたものの、どうすればこの障害を乗り越えることができるのか、だれにもわかるまい。どういった方法でそれを模索するべきか。未だ不明である

ライトな人生はまた、ヒップな人生だし、それはそれで楽しいことだと思うけれど、それは、最終的な死の局面において、僕を勇気付けるだろうか。それとも、絶望させるだろうか。

いまや、僕の走っていこうとしている先に、何が待ち構えているのか、まったくわからないのである。
いかんともしがたい、この、とらえられた問題認識において、ぼくがそれを求めているのが、わかるだろうか、わからないだろうか。

2008年2月11日月曜日

いいさ

それはそれで、なんて、のんきなこといえるわけねーだろ。

相対が実態を支配したとしても、食いつないでいくことだけで、すべてに納得するなんて事は、まだできね。

2008年2月9日土曜日

だすだすだす

ぱららんとめんてぃのあいだには、すさまじい孤独と憂鬱が待っているかとおもいきや、フラストレーションの山がそこには築かれていたのだった、むしろ、意味不明の透明な爽快感が後をおって、迫ってくることが不思議でならないのは言うまでもないかもしれない。

むしろ、君の思い出が何を指し示しているのか、僕にはわからないが、遠いところから降って沸いたようないたずらをするのは、やめていただけないだろうか。そこには、あらかじめ何も用意されてないし、うますぎるトーク番組のように、進めたいわけではないのだ。慎重に、ただひたすらに、慎重に進めることが今は求められていて、狂い咲きさんだーロードはもうまっぴらなんだな。

食いしん坊万歳ってわけではないけど、ポテトチップスをぱくつくだけで、気分は爽快。そんな時代があったのだということに今まで気づかなかったのは、幸か不幸か。

空をおって、魂を呼び起こすための、窮屈なやりとりに身を任せることが、どれほど、楽なことか、君たちにはわかるまい。そういったことが、あるときこの世から生まれ出てきた、多くの物事を、ゆるしたり、ゆるさなかったり、するかもしれないね。

話がうますぎる

誓約書と規約を精査する必要があるかもしれない。

2008年2月8日金曜日

あべこべの日常に

勝ったらかったで、何とかなるものなのかもしれんけど、どうにもならんこともあらーな。なんて、行ってみたまではよかったが、それでも、なにかしら、得るものはあったり、なかったり、そうでもなかったり。
食い尽くすとまでは行かないが、そろそろ、矢面に立たされる瞬間。機というものを知り尽くした、今の男たちの存在は、なおかつ、遠くまで、空を見渡した、雲の眼表のように、晴れ渡っていたとかいないとか。

海千山千のわが身を呪うよりは、長きに渡る荒野の如しわが人生の墓標を、打ち立てることを、何とか避けるための努力を惜しむまいと、ただただ、信ずるのみであります。

紅の豚は、ありふれた事件のあとで、想像を絶する、海の大きさに気づいたに違いない、それは、なおかつ飛行することの一端に気づいた事件だったのかもしれない。彼は飛び出さずにはいられなかったであろう。でも、うまくすれば、そういう事件に、うなずくことなく前へ進めたかもしれない、飛行気乗りたちは、海賊船に乗ったまま、海に沈んでいったのだろうか。否、そういうこともなかろう。夢にまで見た、飛行が、生まれつきそうだったかのような、沈黙を許したとしても、生まれ出る孤独を、愛していくことに、何の楽しみもないだろう。

苦し紛れの憂鬱を、なぜ、僕は許容しようとしないのか、なぜなら、それは死を意味するからである。激しく求め続けることを、やめてしまったら、それは、僕にとって何の価値もない、優れて純情な、ありがたい存在として、遠い空の向こうに羽ばたいていくものとなるかもしれない。

意味不明の戯言を、遠くの空に向かって投げつけるときの、この、なんともいえない、倦怠感と焦燥感と生活観。これが、人生の多くを占めているような気がしてならない。

なぜなら、皆が皆、空を見上げて暮らしているわけではないわけだし、苦し紛れの憂鬱と戦い続けることこそ、無限の悲しみに打ちひしがれることへ、唯一抗うすべなのだから。

2008年2月7日木曜日

削りすぎる歯医者の後で

 かつて、歯は極力削らないほうが良いという、老齢の歯科医にかかったことがあったけれど、彼の気のいい話しっぷりに、魅了されたことを良く覚えています。

 わけあって彼の医院に行くことはもうなくなってしまったけれど、ながらく検診にも行っていなかったので、仕事を始める前に行っておこうと、近所の歯科に行くことにした。
 検診の結果、虫歯はないと診断された。そのあと、彼は昔の治療跡をみて、治療が中途半端なので、削りなおして、新しい金歯を入れたほうがよいといった。そのとき、不安がよぎらなかったといえばうそになるけれど、歯の健康上、現状はよろしくないという話を聞かされると、納得せざるをえず、治療をお願いした。
 文字通り、お願いするや否や、彼は注射器を僕の歯茎につきたてた。あっという間に上あごの右半分の感覚がなくなった。麻酔が効き始めると、すぐさま手術が開始された。まず、古い治療箇所が削り取られた。そこで、手を止めた歯科医は、「やはり汚れてますね」といいながら、その周囲の歯を削って行った。僕の不安は増していった。削りすぎではなかろうかと。なんせものすごい勢いで自分の歯が減っていくように、感じられたからだ。不安ながらも口をあけたまま、されるがままだった僕は、「うーん、もうちょっと」とつぶやきながら削り続ける彼の作業の終了が全うなものであることを祈りつつ、終わるのを待った。 そして、オペレーションの終了が告げられ、うがいを促されたとき、初めて舌で削られた部分に触れたとき、小さく削られ埋められていたはずの傷口があった箇所には、大きな穴が開いてしまったことを確認し、大きな落胆を感じたのだった。
 うがいをしながら、脇に立つ助手に目をやると、彼女は手をぷらぷらさせながら、次の作業を待っていた。
 まあ、しかし、なんと仕事の速いことだろうか、レントゲンを撮って、麻酔、削り、型取りまであわせても二十分もかからなかったように思う。
 これが、いい仕事なのかどうか、素人の僕にはわからないけれど、虫歯の原因が、歯の質や、食生活や、歯磨きにあるのだとすれば、本人が食生活や歯磨きを改善しなければ、もう一度虫歯になる可能性は高いのではなかろうか。
 僕は比較的長い時間をかけて歯を磨くほうだけれど、僕より虫歯の多い人でも、僕より簡単な歯磨きで済ませる人が多い気がする。もちろん磨く時間だけが問題ではないだろうけど、多くの人は、虫歯になっても、また同じように歯を磨くし、同じように食事するんじゃなかろうか。特に大人は。
 削ってもまた虫歯になるなら、大切な歯を急いで削ってしまうことはないんじゃなかろうか。虫歯にもなってないのに。

もういかね。

ありとあらゆるものを包含しても、それが何かを証明するわけではけっしてない

むしむしとした夏も、暖かい冬も、それはそれでいいものだけれど、きんきんに冷えた冬の一日も、冴え渡るひと時を与えてくれるという意味では、非常にありがたいものだということに最近気づきました。

フレームワークを評価する際に注目すべき点は何か?

・作業環境の構築と、解体は、頻繁に簡単に行えるほど、思い切った作業をしやすいので、できるだけ準備が簡単なものを用意すべきだし、できるだけ依存するものを減らすべきだ。依存するものとは、言語のバージョンや開発環境、データベース、バージョン管理システム、ビルド環境等がそれにあたると思われる。

・テストが簡単にできるものが良いので、モックやテストデータを簡単に作れるものがよい。つまりフレームワークなしでも起動が簡単にできるような、インターフェースを実装すべきだ。

・直感的な操作で作れるものがよい。ただし、これは、上記の二点とトレードオフにする場合には、慎重になる必要があるだろう。なぜなら、開発担当者はそもそも実装能力を持っているわけだし、開発手法にもなれたものを使ってもらうことは、プログラミング工数を減らすことよりも、生産性を挙げることも多いからだ。なにより、作業時間が計算しやすいというのは、開発者に余計なストレスをかけずにすむ。ユーザビリティを追求するからこそ、開発者の能力を見極めて信頼することはとても重要なことだ。

・メンテナンス性に優れているものがよい。フレームワークに限られた話ではないが、部品化と一般化は特にフレームワークのような、多彩な要求への対応を要求される部分には重要だろう。

・リソースの仕様はできるだけ抑えられたほうがよい。これは、起動時間を含めて、動作に時間がかかったり、大量の接続を受け付けた場合に、システムがダウンしてしまってはお話にならないので、当然といえば当然なのだけれど、やっぱり重要なので、そして、プロジェクト終盤になって問題になったりするので、挙げておきたい。

言葉にするとどれも簡単そうだけど、大規模システムでは、なかなかそうは行かないよね。なんででしょうな。

2008年2月4日月曜日

やっぱり言われることは言われる

好きにやってんねやからほっといてくれよというのは僕の都合で、やっぱり不思議と生きるのがつらいと思わされる。これが社会というものか。

しかし、生命活動が、複雑な形のピースの組み合わせによって形成された、ジグソーパズルのようなものだとするならば、そこにうまくはまることができない人がいることは、別に不思議なことではない。だからこそ、これだけ愛が叫ばれるのかもしれない。

優秀な職工と呼ばれる人たちの給料が安いのは、非常に不当であるが、いかんともしがたいところなのかもしれない。

2008年2月1日金曜日

真意を伝えること、すなわち自己主張すること

悩んだ挙句、結局、営業担当者に相談することにした。

Aさんの話では、僕とAさんを同じ現場にいれる方向で話を進めているということだが、僕は仕事の開始時期に一番のプライオリティーがあるので、別の現場でもかまわないと。

返答はこうだった。

・僕の自宅から近い職場を基本に職場を探している。Aさんの自宅から僕の自宅は遠いので、セット出なければ仕事がない説は、いまのところなし。
・それがむつかしければ、Aさんが今働いている職場と同じ職場の案件を紹介しようとしている。
・これが現段階で一番早く仕事が始められそうな方向である。僕の真意が伝わっていなかったわけでもなかった。

納得。

結局自分の真意を率直に伝えることで、この局面はのりきれそうだ。しかし、教訓として残るものがいくつかあるような気がする。

まず、問い合わせようと思い立ったのは、Aさんからのメッセージに返答したかったからだ。そう、彼とのコミュニケーションを円滑に行うために、必要なことだと判断したからそうできた。つまり、聞き流さなくてよかった。それから、自分の要求しているものをできるだけ忠実に率直に伝えたこともおおきかった。二つとも当たり前のことなのかもしれないが、結構時間がかかったよ。

神経質になる必要はないが、事実は受け止めなければならない

題目のとおりだ。

どう受け取るか、そこに大きな問題がある。
性急に、厳密に考えすぎると、たいてい良くない発想をしてしまうものだ。

考慮すべき要素は無限にあり、一方でなにもないとも言える。

だったらどうすりゃ良いんだと、思ってしまうが。
そこを踏みとどまって、いい落としどころを見つけるのが、生きるための努力ということなるのだろう。

さて、良い受け止め方とは、いかなるものだろうか。
具体的な問題としてしか考えることができない場合は、具体のまま、生のまま扱ってみよう。

ある知人が先ほど電話をしてきたのだが、彼は僕がはじめようとして、うまくいかなかった仕事の件で電話をかけてきたのだった。彼をAさんとしよう。その仕事自体、さる営業筋からの仕事だったのだが、その営業筋を紹介してくれたのがAさんだったことがあり、仕事が始まるまでの状況を報告することにしていたのだった。仕事自体は、残念ながら先方と開始時期の折り合いがつかず、破談になってしまったのだが、それを聞きつけたAさんは、僕に連絡してきてこういった。

「営業の人は、今、僕(Aさんのこと)とセットで入れる仕事を探しているらしい」

つまり、僕とAさんが同じ職場で働けるような仕事を探してくれているという話なのだと思う。

僕は深くは考えず、聞き流して電話を切った。

確かに僕としても、Aさんが同じ職場にいれば、心強いことこの上ない。ただ、僕としては早く仕事を始めたいわけで、Aさんのスケジュールに合わせて、仕事の開始が遅れるようであれば、別の職場でもかまわないと思っている。では、僕の真意が伝わっていないのか?それとも、Aさんと一緒でなければ、仕事を任せることはできないと判断されたのか?それとも、他の意図があるのだろうか?この疑問を直接営業担当者に問い合わせるべきか、それとも、次の連絡を待つべきか?

あるいは、話に尾ひれがついたと捕らえて、流すか?

2008年1月29日火曜日

プログラム職人の心得

 そもそも、集中することと拡散することは、それぞれが、それぞれを補い合うものであるはずなので、もしかすると、この議論は成り立たないかもしれない。それでもあえて、そこに定義らしいもの。指針らしいものを見出したいと思うのは、私の無駄な努力かもしれないが。やってみたいのだから仕方がない。
 そもそも、職人と一言にいっても、さまざまな仕事に携わる人がいるので、そこに何かを求めること自体、難しいのかもしれない。
 職人はひたすらに、自分の技を高めていく人だといえるかもしれない、また、教わったことをひたすら繰り返すことで、体得していく技術を生業としている人だといえるかもしれない。
 では、プログラマとは何者であろうか。プログラマーという職業は一見、家具職人や寿司職人と同様の職種を指し示しているかのように解釈してしまいがちだが、なにかが違う。なにが違っているのか?
 一般に職人と言われる人たちが利用する道具は、長い間同じものが使い続けられる。普通職人はそれらの道具を工夫して利用することで、製品を作り上げていく。時には道具を改造することもある。対して、プログラマが使う道具は、コンピュータということになるが、コンピュータと一口に言っても、開発する際には製品の動作環境や、目的、流行に合わせて、言語や作業環境が多岐に渡る。そして、それらのうちのひとつを選択して、技術を深めるだけでは、プログラマとして生計を立てるのは難しい。
 また、職人の評価は、精密さ、スピード、美しさ、確実さなどがあげられる一方、プログラマの評価はスピード、安定性、操作性、再利用性などによって評価される。
 しかし、もっとも重要なのは、職人は果たす役割によって定義されるが、プログラマは彼らが働くことのできる、作業環境と言語によって定義されている。この違いは非常に大きい。

つづく。

参考までに

http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50058753.html

できることは多い

己を知り、敵を知れば、すなわち危うからず。
ということで、

現実と夢という、関係があるようで、ないような、二つのものを脇に見据えつつ、己を知ろう。

現在に満足しているところが大きい。
その現在とは、

ぷー太郎
貯金はまだある
家事と読書とテレビの毎日
夜になれば彼女と酒が飲める

んー、幸せだ。
しかし、このままではまずい部分もいくつかある。

ひとつ、ぷー太郎であること。これは、先々のことを考えるとまずい。具体的な先々については、後日検討するとして、とにかくまずかろう。何よりまずいという感じがまずい。

ということで、仕事をする必要があるわけだが、さし当たって前職の技術はまだ使えるであろうから、それを使って仕事を見つけることにする。具体的な仕事に関するこまごまも、いずれ検討する必要があるだろうが、これも今は本題ではない。まず、働くのだ。

仕事がひと段落したとして、読書とテレビだけの毎日というのもつまらないという感はある。
じゃあ、他に何をしようか。

やってみたいことはいろいろあるが、今注目しているのは、家。マイホームってやつだな。
できれば、見晴らしのいい田舎で、古い家を改装して、感じよくして住むというのは、ありがちかもしれないが、非常に魅力的だ。この家には、広いキッチンがほしい。食は生活の基本だ。それから、庭が欲しい。観賞用というのも悪くはないが、どちらかといえば、鶏ややぎを飼って。日々の食生活に花を添えたいと思う。欲を言えば、石釜なんてあったら、時々ピザとビールで時間をすごせて、非常によいのではないだろうか。建物の話をすると、やはり平屋がベストだろう。手入れしやすく、何しろかっこいい。そして、日当たりの良い斜面に立地して、南には海があったりすると最高だ。まあ、ありがちではあるが、そういうことだ。

家を持つからといって、一歩もそこから出ないというのでは、寂しい気もするので、外に出たくなった時の楽しみもいくつか用意しておきたい。といって、これから、新しいことに挑戦する気もあまりないので(この件に関しても検討が必要だろう)、今までにトライしてきたことを、温めていく方向で考えてみよう。まず、スポーツといえば卓球だ。それから、ビリヤードだ。そして釣りだ。これくらいあればいいだろう。

あとは、たまに旅行できれば、いいかな。

うーむ。検討事項が山積みだなこりゃ。

2008年1月25日金曜日

流れある一日の平衡状態について

強烈な二日酔いが懸念された昨晩の宴会から一夜明けて、良い意味で予想を裏切って、調子の良かった僕は、長らくお世話になっている女性と、映画を見に行きました。

映画は社会的な地位から脱落していく男が、何となく人に救われて、幸せを得ていくさまを描いたものでした。
とにかく酒飲んで、タバコすってた印象が強かったですが。
ただ生きているだけでも、実にさまざまなことが起こるものだなと、実感させてくれる作品でした。
いいものを見ました。

その足で、蚤の市に出かけ、そこでばったり知人に出くわしたわれわれは、彼の家にお邪魔して、コーヒーをご馳走になりました。最近越したばかりという彼の家は、一貫した趣味が自然に表されている、素敵なアパートの一室でした。コーヒーご馳走様でした。

あまり深く考えずにすごしていると、幸せが向こうからやってくることもあるもんだと。
つくづく思った一日でした。

フランスいきたいなー。

2008年1月23日水曜日

無駄足踏んだ

久々に町へ出かけてみると、なんせ風景はなんとも違ったものになっておりました。
しかし、そこはそれ、見るものはあまりかわりません。

靴をやっとのことで購入して、ぼろぼろのスニーカーは晴れてお役御免となりました。
長いことありがとね。
君と歩いた旅路は一生忘れません。
ありがとうございました。

新しい靴ですが、スロヴァキア産と書いてあります。
そんなところから靴がやってくるという話は、いまだ聞いたことなく、興味がわいたので調べてみたのですが、スロヴァキアのCEBOという会社は、軍用品の老舗メーカーらしく、今ではシューズメーカーとしてかなり有名らしいということがわかりました。
日本でも扱ってる店が結構あるみたいですね。

靴を探して、以前から気になっていたお店にいった折、おしゃれなPコートがあったので、それも買ってしまいました。いやはや、出費がかさみますね。

それから、車の側面に傷が見つかったので、見積もりを取りに、某大型店へ。
わずか20センチほどの引っかき傷に38,000円は高い!
車の修理には詳しくないので、適正価格なのかどうかはわかりませんが、素直な感想でした。
自分である程度はごまかせるようなので、そちらで対応することに。
今日は雨が降っているので、明日にでもちょいちょいとやってしまうつもりです。
車磨いて塗装して、また磨く。
楽しみですなー。

2008年1月17日木曜日

回る回るあなすたしあ

ラップのトップギアに乗せて、踊り狂う竹光の孤独は、青大将といわれた田中久仁江の、太く短いあれに等しいといえるのかもしれない。
無駄な時間をすごしてきたわが身を呪うよりも、それを許してくれた、周囲の配慮に感謝すべきときだろう。次は何をすべきだろう。なにができるのだろうか。

多くの物語は、左右対称をなして、遠くへ飛び去ったアホウドリのように、広々とした空間を無尽蔵に消費して、それがもはや、質量を伴わない、ある意味不確定な膨張に至る過程を見せ付けられたかのような、錯覚を覚えた末に、軟着陸を敢行した。胴体着陸ではあったが。

そのときパイロットは、それとなく、浮き沈みを続ける憂鬱なときを堪能し、また、むさぼることでむさぼられていた。

気づいたときには、正しい形で僕の魂は存在し続けていることが再確認され、ほっとしたものだった。

また、どこかで、出会うであろう、様々な怪事件を、僕らが目にとどめておくことは、更なる膨張を希求し、希望という名のサバンナ(なんじゃそりゃ)を生み出し続けることだろう。

ありがとう。
デモンストレーション。

2008年1月10日木曜日

ぬめぬめっと

クラスターマジック。
勧進帳。

生き生きとした悲しみと喜びのハザマで、君は、それを見ただろうか。

みたな。
みたな。

無理難題を投げかけて、力を出すことを、強要することが。
頼朝に追われた義経と弁慶にとって、とても重要なことだったのだ。

この後彼らはどこへ旅立つのか?
膨張しているとうわさの宇宙においては、まったく予測不可能であるし、予測する必要もない。
なぜならこの物語は最高だからだ!

愛してるぜ!ざ、わーるど。

動き出せ

無理やり作った悲しみに浸っている暇はない。

必ずしも、君が見た夢が、寒々しい夢の果てに追いやられたわけではない。

鋭いまなざしで物事を見通す、カイワレ大根のような存在に慣れるかもしれない。

そういったものに、私はなりたい。

うまうましい彼女の存在自体が、くんずほぐれつ、いろいろな思いを折りなして、折りたたんで、もうどうにでもなれって感じで無理やり流されてしまった、多くの思い。

それは、君にとっていったいなんだったのか、それはわからないし、知る必要もない。

ただひたすらに、前へ。
進むべき方向へ前へ。

2008年1月9日水曜日

さびしんぼうの僕たちは

かわるがわる、うごめく光の中で、われわれ一同は果たして何を見、何をしてきたのか。
まったくわけがわかりません。

うるうると光るわが目を見開いて、空まで高く、うずたかく積もり積もった憂鬱を、いつか風が吹き飛ばしてくれることを祈りながら、私は歩くことにします。

ええ、そうしましょう。

組したままの状態で

狂ってしまった歯車をもう一度噛み合わせるにはどうすればよいか。

遅かれ早かれ、それは起こることでした。
それでも、私は、早くからそれに気づいていました。

だからこそ、踏み切れなかったわけです。
この目で確かめるまでは。

事を急がねばなりません。
自殺行為は許されません。

なぜか。
まだです。

脱線

脱線に付き合う気はない。
それが答えだということは、それなりに頷ける気がします。

脱線ばかりしていたわが身をのろうことはあります。
しかし、私にとって、脱線こそ重要だったのであり、脱線の中にこそユーモアはあるのだと考えていました。

しかし、それは誤りだったようです。
真摯に受け止めることをしなければ、前へ進むことはできそうにありません。

険しい道に差し掛かりました。
とても険しい道です。

最後は真っ暗闇かもしれません。
しかし進むしかありません。

ああ夢ならば醒めてくれ

かどわかすことは、それとなく、そうすることだと思っていた。
必ずや何かの導きがあるはずだと。

しかしそれは違っていたのだ。
そもそも間違っていたのだ。

完全なる敗北。

苦しみは何かを生むだろうか。
生みの苦しみ?

無残に散った心の奥底に、自分の位置を求めているということが説明されている。
ならば、説明された心の動きから、何を捨て、何を得なければならないのか。

そこには大きな欠落があるように思われる。
私はかつて罪を犯したと告白いたします。

それは大きな罪なのか、そうでないのか、自分では良くわかりませんが。
おそらく大きさは問題ではないのでしょう。

それでも、私が今日ここにあるのは、彼らが私を見捨てなかったからであり、私が生きていたかったからであります。いまでもそれは変わりません。

なおかつ、無駄な努力というものがあるような気もしています。

さて、私はこの先どうするべきなのでしょうか。

仕事を持ちたいと考えています。

夢ならば夢で、何とかしたいと思います。