2007年12月28日金曜日

狂い咲きサンダーロードのマタニティドロップ

食いしん坊であることと珊瑚礁の保護に努めることの間には、構造的同一性があるのかないのか、待ってみなくちゃ判らないことの方が多いかもしれないのに、らんらんと光り輝くオーラの先に見えるのが、一片の詩であって何が悪いのか、悪くないのか。むかしから僕はそういうところがあったのだ。みんないきているのだな。苦し紛れの戯言に多くの時間をかけすぎた。無為の過剰は狂い咲く椿(団十郎とは関係ないだろう)のように、惚れ惚れとするクロニクルを展開し、そしてまたはじけた。無駄な努力としりつつも、苦労して積み上げたいろいろなものを、あえて無視し続けることは不可能に近い。あえて、これといって無理もないさまざまな劇場に身を任せてこそ、天稟この上ない日常にも一条のひかりあるらむ。

狂い酒。サンダーロード。

蟷螂拳法

ござるでござる。
ラッキー池田の横には蟷螂の着ぐるみを着た関根勉が、いかにもうれげに、しかし真剣なまなざしで、鎌をふるっている。

むなしいだけの無駄な世界ではなく、無意味であっても命のほとばしりを感じられる何かを求めて、皆々様方はさまよっていらっしゃるわけですが、くれぐれも水道橋博士から学ぶことを忘れてはなりません。

何を言っているのか自分でもまったくわかっていないわけですが、今日ここにあらせられる皆々様方が、特にこれといって不自由することなく暮らしていけるのは、ひとえに、苦しみの中に希望を見出して生き抜いてきた、先人たちの知恵や工夫の賜物であるといわざるをえません。

多くを学ぶことと、それを活かすことは、まったく別のことと考えられますが、そのとおりです。
角度をつけること、その先に見通す何かが存在していると知ること。
苦労して得たものが全てであると思わないこと。

カリキュラムは一定の理念と共通性を認識するためには有用かもしれませんが、結局それは非常に静的なものであり、日々の暮らしの中で起こる出来事に対して、接点を持つことも持たないこともあります。ただ、それが、別のどこかで回りまわって別の意味を持つことをご存知のはずです。

偉そうな物言いになってしまったので、これで止めます。
こういうこともあるんですね。

では。

2007年12月27日木曜日

報道2006

一年遅れてるよ。

オダギリジョーが結婚するそうで、まあめでたい。
お相手はきれいな女優さんらしい。

くるくる寿司を食べによろず気になることはほっといて、築地あたりまで出かけていったまでは良かったのだけれど。くるくるするもんだから、いつまで待っても一向に埒が明かない。見掛け倒しの妄想を追求した挙句に、くんずほぐれつもうどうにでもなれってんだったら、そんなことはじめから試みなければ良かったじゃないの。というのは人の勝手な思い込みで、これでも真剣に生きていたりいなかったり。

虫のいい話とはよく言ったもので、くいっぱぐれたらどうしようもないことは周知の事実なんですが。そこはそれおいしいものは食わなきゃならんという気持ちは抑えがたかったりするわけです。皆々様方が考えておられるほど事態は深刻ではないのですが、このままこうしているのは、どこか遠い未来で、きっと後悔しそうな気もするわけです。

無駄や不自由を気まずいながらもさまよっている大人の心もとない憂鬱をメランコリーだと言い張った当時の僕はまだまだ事態の深刻さからは程遠く、まあ、恵まれていたと考えて差し支えないでしょう。これからのわれわれは、多少の見直しを図る必要がありそうです。

なんにせよ、車にも乗れることですし。ちょっと遠乗りしてみますかね。

あらよっと。

2007年12月24日月曜日

寝汗をかいて

目覚めてみると、すがすがしい気分とともに、一抹の寂しさが残っていたのだ。
しくじったわけでもないのに、もう遠い過去になってしまった日々のことを、どうしても思い返してしまうのは、かれらと我々がともに生きた時代が、なお現在に覆いかぶさっているからだろう。

とりあえず、乗り出してみたものの、行き先不案内、かつ未熟者である私にとって、何度も連れられてきた道も、見知らぬ田舎の道にほかならず、何ゆえこんなところを徘徊しているのか、ふと自分に問いたくなるのもまた事実である。

訓練された盲導犬のように忠実な親父がいたとして、それが遠くへ行きたいと願っていることに気づけなかった自分を悔いる子供のような、いかんともしがたい、うん、まさにいかんともしがたい、流れを感じつつ、音楽に希望を見出した実相寺氏の当然とも言える憂鬱と、情熱に心打たれるクリスマスイヴってか。

2007年12月22日土曜日

バナ

フランキー堺の赤かぶ検事の事件簿をかなり昔から気になってみていた。
だいたい、赤かぶだの赤髭だの、私は赤はすきではない。
どういうつもりかしらんが、ライブハウスの天井に猿を放し飼いにしている悠長な男が、無理やりそのビデオを見せてくれたのがきっかけだ。
クレイジーな男だったが、いつも寂しそうに遊びにやってきては、人の迷惑顧みず、派手に暴れて去っていく哀愁を持ち合わせてもいた。

とんのの牛はよく鳴くことで有名だ。
万華鏡の三々七拍子に聞きほれていて、今まで気づかなかったような、いろんな出来事に翻弄されて毎日が過ぎていく。
もう、誰も帰って来いとは言わないのだろうけど、無理から何かを育てようとしている節がなくもない。
とりあえず、これといって、たいしたこともできないわけだし、生んでくれた親に対する義理も忘れているわけではないので、そこんところうまくいけばいいなと思っている今日この頃です。

2007年12月16日日曜日

たまたま

すがすがしいという言葉がしっくりとくる目覚めでした。
気持ちのいい一日を過ごせそうです。

こんな日は牧歌的な音楽を聴きながら、茶でもすすってのんびりしたいところです。
いや、こんな日だからこそ、外に散歩に出かけるのもいいかもしれません。

迷いながら、部屋をうろついていたらもう二時です。

昼寝でもするか。

2007年12月14日金曜日

ナイロビの

さらさらヘアーは山岳地帯の風とともに、カラスの鳴き声を飛ばしてきた。
投げつけられた歌声は、激しい風を切って、さらに高みへと上っていったのだ。
からすとキリギリスは遠い日の花火ではないと、まんざらでもない声を出しながら、まざまざと見せ付けられる魂の叫びのような、胸騒ぎのような、坩堝の中で、何かが待っているのかもしれない。

有名無実のある時期に、狂い咲くように飛んでいった饅頭のような引きこもりの男は、むなしい雄たけびを上げて、そらに飛んでいったのである。

むんむんと届く暖かい風を体に感じながら、坩堝の中に身を投げること、そして、顔を出していることが、もっともありがたい存在感の証明であるのだろう。

アラーキー・イン・ザ・ユーケー

うらぶれた宿の尊敬

朗々と憧憬

意味不明でオーケー

んー。

2007年12月12日水曜日

mizumi

2007年12月9日日曜日

隅々まで効く

バルサン。

勘当するもしないも、寒暖差がかもし出すオーロラのごとく、キャッチーなフレーズの存在を、往々にして欽ちゃんファミリーの終焉だけが認めている感動とともに、ミラクルを起こす時のみ、ありえる話だと思う。

今日ここにおわします、私=彼は、ラッキーな星の元に生まれました。というのも、そもそも誕生とともに、きぐるいじみたわが身の不幸を呪ったことは、いままで一度としてなかったからであります。無駄に生きていくというナンセンスな考えにとらわれたとき、彼は初めてそれを体験しました。つまり、人であることに疑問を抱いてしまったわけです。もっといえば、彼は彼が人であることに気づいてしまったわけです。遅かれ早かれ、それは訪れるものなのかもしれません。しかし、彼がそうしている間にも、遠くで星が瞬いていることがわかったのです。まさにピーターパンです。

ここで、彼は腹をくくることを決意しました。しかし、それがどういうことなのかは、いまだ理解できていません。しかし、彼はそれを問い続けていくことになりそうです。しばらくの間、もうどうすることもできないと思い悩んだようです。でも、彼は考えることをやめようとは一度も思いませんでした。だから彼はこう思いました。

ルイーじもーくドールシックスせんじょうみんかんじくりとまんだらゆうとみんだなえん。

アン・ドゥ・トロワとは行かないまでも、むしろ円環構造状のたらたらと流れる無の状況は、キスをしたときの無駄な憂鬱に良く似ています。この甘美な身体は、欄干のカムランブラウンの様に、ありふれた日常に生まれたばかりの故郷の味を、とうとうと語って聞かせるだけの、うまみをもったアナロジーであります。

そうです。彼が誕生したときには、まだ世界はありませんでした。なぜなら、彼と彼女の存在は未だ出会ってはいなかったからです。無人君と安易な道のりは、同じようで、また違うようで。それなりに楽しいものであるかもしれません。

とうとうと書き綴ってきましたが、しみったれたわが身の不幸を呪って生きるよりは、無駄とは思いつつも欄干のカムランブラウンのように、想像のダイナミズムのなかに身をうずめることに、何かを見出したと考えられなくもないと思います。

そういうことです。

2007年12月8日土曜日

散切り頭と鯉の鼻は万に一つの無駄もないのだ

倉敷あたりでばったり会ったら、しんしんと降る雪を堪能したかったものです。

繰り返し、でてくる月ですが、蜻蛉のごとく過ぎ去っていく、想像の産物にいまだに振り回されているようでは、何もかもお釈迦になってしまいます。

くれぐれもお気をつけて。

2007年12月7日金曜日

発展

感謝の気持ちとともに、様々な思惑がそこに潜んでいるのは、常であり。
そこに登場するめいめいのキャラクターと緊張は、物語を形成するためにはどうしても必要なものである。

物語のとともにしか、意識の継続が難しいと誰かが言った。だとしたら、そこに、出来事が必然的に起こることもうなずけるような、うなずけないような。

みんながみんな、それを感知して行動しているわけではないとして、構築からの逸脱と、一貫性の共有はそれこそ膨大な知識と偶然が重なり合った果てに、まさに奇跡的に発生するものとしか言いようがない。そのような奇跡をかつて人々は、書きとめて神に捧げたそうです。

2007年12月4日火曜日

簡単に

壊れた。
もろいものだねぇ。

青い空気や、それなりの、なんかいいものたちは、手元を去っていきました。
これから、彼らに会うことはもうないかもしれませんが、みなさんお達者で。

かつて感じていた、興奮や、暖かさや、悲しさや、恐ろしさを、同じ強さと幅で感じることはもうないでしょう。

それは、誰かに教わったものであり、そのときのすべてであり、そして二度とないものであります。

旅の締めくくりにふさわしい、何かそういったものを計画しています。

おせわになりました。

2007年12月3日月曜日

ぬるぬる

ぽんとでました。

パンダの赤ん坊は、さんさんと降り注ぐ太陽光に照らされて、光り輝く銀の斧を手に持ち、しばしば訪れる軽い憂鬱に浸っていたまでは良かったのですが、しみじみと気持ちの整理をつけながら、ラリった赤ん坊のようにたどたどしい日本語で、サンバのリズムを口ずさむ快感に打ちひしがれて、みんなが搾り出した知恵をむさぼる亡者のごとく、申すまでもないことを、悶々と考えることは、あくまでも個人的な活動だもー。

2007年12月2日日曜日

模型の現実

立体的思考とストラテジーの違いは何か。
皆がそれを認めないのはなぜか。

受け止める精神力が、形にならないのはなぜか。

タフネスはどうすれば得られるか。

りんときんきんに冷えたビール飲みたい。ミミズクの羽ばたきのように軽やかに、ひそやかに、えろちっくに。

2007年11月29日木曜日

あらあらあら

黒柳徹子と漫だらけの母は、君が代の斉唱とともに、あの世に去った。
微塵に散った、あらゆる金属の物音が、きびすをかえして、車座に座ったわれわれの魂を奪っていったのである。

見るも無残な、貴金属のたそがれの中に潜む欲望の塊、皆が目指した未来は底にあったのか、おそらくなかったろう。

金額の問題ではなく、しみじみと感じることのできる、禁断の書物の味を誰もが味わえるわけではないことは百も承知である。

中断また中断。

必ず起こる裁きの時間と、カルバリィCの魅力の塊。

みじんこげんき。

2007年11月28日水曜日

アルキメデスの原理はするかしないか

するもしないも、心のままとは、果たしていいがたく、ままならぬ日常にぼんやりと浮かんだ、メリットとデメリットのハザマで揺れ動くいったいの隠微な裸体は、見るも無残な、裁きを受けて、目に映るものすべてを繰り返し破壊していった。

過去の数日間に起こった出来事は、見た目にもこれといって、痴呆の様相を呈していたわけではなかったが、なんども、繰り返し物事の本質を見失った後では、痴れ者の淫乱さを備えた、か細く白い裸体に身を任せてしまいたくなるのもまた人情である。

まれに見る恍惚と自尊心の中で、できのいい人々、これはあまりに卑屈な表現かもしれないが、そういったものが、あまりに多く見受けられ、戸惑うばかりである。

また、戯言というなかれ。

皆の言うこともまた真実なのであり、それぞれの空間と時間が、合い間見えるその日まで、そう長くは間もない。

彼らの行き先がどこなのか、だれもわかっちゃいない。ただ、その方向が正しいことだけははっきりとわかっている。ふがいなさに打ちひしがれながらも、それに気づかないふりをすることが、もっとも間違った道であることをはっきりと自覚し、実行に移すことが、今こそ求められている。

桑田真澄氏に捧げる

2007年11月27日火曜日

職業安定所

もっと悪く言えば、といわれて、立ち止まった。
何も言えなかった自分に憤りを覚えている。

なぜもっとはやくこのことに気づかなかったのか。

これからやるべきことをやっていくしかないだろう。

なだめ

そらみみ聞いては、ありもしない誘惑にかられ、はるかかなたを仰ぎ見る季節。
あれよあれよというまに、空とぼけた愛の軌跡は、はやまった木馬の腐食のごとく、次々となぎ倒されていくのであった。
みーみー蝉の鳴き声というのもおかしいかもしれないが、まったくあずかり知らないところで、物事は進行しているものであり、赤鼻のトナカイと仲良く散歩しているつもりが、いつの間にか自分がトナカイになっていたというのでは、あまりにもしゃれにならない話である。

みんなの行く末というテレビ番組を放映中に、窮屈な螺旋階段をタンタンと下りていくような、みだらな気分に従って行動してはならないと、いくつかの著名人が言っていた。

ラッパのマークの正露丸を片手に夢を見るような。そんな気分でした。

2007年11月19日月曜日

アルティメッと

あるかないか、ないか。
渋いか渋くないか、ちゃらいか。

民事訴訟民権運動その後、あなたの中に生まれた力関係が織り成すドラマティックな仕事の時間。
みしみし音をたてて、金瓶梅を読みふける、夜な夜な這い回る蛆虫と時間感覚。
修練された技術。醸造技術の今後。ある一転で消化されるべき物語の終末に向けて動き出す、さまざまな思いと導火線。
シャンバラヤに出向いたエネルのごとく、さんさんと降り続ける太陽光と温度計。
みんなげんき。
散々なきながら生きている。歯を食いしばって。

まるまると肥えた、豚の照り焼きと、三紺三尾、ある馬の物語。

草々。

はなずるずる

カミングアウトと相対性理論の関係は果たしてあるのだろうか。
あるような気がしてならない今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

みんながみんな何かを貪って生きています。
それでも、権力と構造は変化し続けています。
だから未来に希望はあるのだと思います。

様々な思惑が絡み合う中、一条の光が瞬いていると思います。

それでも僕は生きていくのです。

だからこそ、さんざん言い訳した後で恐縮なのですが。
さすがに、馬には乗れません。
ライダーではないからです。

アメーバブログなんて変な名前だなと思ってましたが、つけ始めてからというもの、いい名前だとおもうことひとしきりです。
でもブログが世に登場したとき、僕の前に現れたのはBloggerでした。
だから、しばらくはここにいさせてもらいます。

あーといえば、うーと返す、そんな日々が訪れて、老いも若きも、散々悩んだ挙句に、道をふみはずすことはなはだしく、しこうして、五月雨の夜にうちひしがれても、雨はやまず、ただ、枯葉のごとく舞い散るのみであります。

あー無常。

2007年11月16日金曜日

さるわたりさすけ

ムンドモロッソ。そのありとあらゆる動性は、最後のからまりをよそに砕け散った、一抹の不安に等しい。
ムンドモロッソ。ある意味それはくだらない理性のために砕け散った、ある晴れた日の午後に等しい。
ムンドモロッソ。神の名において物申すことは、様々な野望が砕け散った後で、切々と魂の叫びを続けることとほぼ同等である。

それらに基づいて、君の落語を聴いてみることにする。
いかにもそれは、阿呆と馬鹿の織り成す、愉快な人生談義のようにも思えるし、あるいは、しごかれたペニスの災いのごとく、ありふれた日常に活をいれる、ひとつの起爆剤となるやもしれぬ。

みなさんご存知のとおり、そこには、これといって、特に取り沙汰す必要もない瑣末な出来事が、わんさとあふれかえっているのであり、振り返ってみたところで、これといって、新しい発見があるわけでもない。

むかつくことに、それは突然やってきて、気づいたときには私の手の届かない領域に旅立ってしまっている。特に気をつけよう。ありとあらゆる敬語に。

みんなの未来に知らしめるために。

彼と彼女の目測に。

ありとあらゆる物事の道理のために。

マハラジャとマハーバーラタは似ているか、ラッパのパンツは青いか。

あえて、物申すならば、譲歩をもって、こう申し上げたい。

じあまり。

アラベスク神風

うたまるのウィークエンドシャッフル。
タマフルの憂鬱。

信じられない理性。

禁断の方法。

ありのままの自分。

うまくいえないラプソディー。

くるまざきだんきち。

耳たぶにたこ。

ラーメンライス。

カーナビゲーションシステム。

もうほうの雄たけび。

からしめんたいこ。

るっくすピストルズ。

朝焼けの憂鬱。

坂本九。

なでしこ。

ラッパー志望の憂鬱。

マンネリ化した日常。

かもし出される不安。

喜べない合格。

さとうしんじ。

じあまり。

2007年11月13日火曜日

するめいか

のごとく

しぼんだ太陽の真ん中に手を押し当てて、遠くを眺めよう。
いつか来る夕日のそのまた向こうに、輝かしい未来が燦然と浮かんでいるさまを、しかと見届けよう。
みな同じ地球に生きているのだ。
陳腐だけど。

2007年11月12日月曜日

やるきのない

もう一度

いやなら嫌とはっきり言え

貴様はあてつけのつもりでそういうことをやっとんのか?

それとも応援してくれてんのか?

どっちやねん。

2007年11月11日日曜日

はらがたつ

あるいみDNAの問題なのかもしれんが、新たな旅立ちを助長する、正しい物事のいくばくか、は、真剣に出来事を通った後では、ただただ、ありがたいものだな。

三々五々、そうしてみたところで、苛立ちの募る毎日を何とかやり過ごしていくことで、多くのことは解消されるのかもしれない。

みんなで集まって、近々に冷えたビールを飲み干すと、ルワンダとかなづちと、百パーセントの誘惑に身を任せることが、それなりに面白いものに思えてくるのはなぜだろうか。

見かけによらず美しい炎をともして、遠く色あせた空を眺めることを旨とする、多くのともしびにのって、ありふれた日常に心底感謝すること。何らかのさばを読んでいくことが必要だ。

奥の細道

昨日限りの出来事は、いかなる失態を持って、償われるのであろうか。

信じられないいくつかの誘惑線のなかに、いまだかつてない、君からのメッセージがこめられているような気がして

それがいつになれば報われるのか、だれにもわからない。

今をときめく二十歳の私は、当に忘れ去られ、信じられないいくつかの出来事が、起こり続けている。

今から三千年前、人類が滅亡したころには、僕はどんな光景をみていただろうか。みていなかっただろうか。

すばらしき人生、それもまた一片のしに他ならないのであり、いくつかの他愛もない出来事から、つむぎだされるたちの悪い冗談といえなくもない。

僕が感じた恐怖心や、それにまつわる、いくつかの出来事は、いまだかつてない、信じがたいほどの実力を持って、襲い掛かってくるものだ。

未知との遭遇は、好奇心と、義侠心と、神話によって、今に受け継がれているが、仮にそれがただのいたずらだったとしても、信じられない気持ちに、偽りはないのだ。

未来もそのまた未来も、過去も、気持ちひとつで、どこまでも広がりうるものだとして、肝心のそれが、感覚的なそれが、寒暖差が、意味をなさないといっても、みんながみんなそれを信じるわけではなし、信じられるものがあるわけでなし、禁じられた遊びがあるわけでなし、たまたま通りかかった絶望に未来を感じることもまた生まれ変わりの如し。

淫乱なメス。それは暖かい抱擁と、黒光りしたカーテンを、同時に見せ付けるが、ありのままの自分をそこにぶつけていくこともまた、ありありとした自然の流れに身を任せるためには、らだとうしん。

からから。

人間関係

そらと海との間には
今日もつめたい風が吹く
君が笑ってくれるなら
僕は悪にでもなる

君はどこへ行った。

2007年11月10日土曜日

奇印良品

しらじらしい。世界不思議発見。

王なんかしったこっちゃねぇ。

意味ないんだよそんな事やったってよ。

禁じられた遊びを覚えたって、イングランドは勝てないんだよ。

死んじまえ。
くたばれの方がいいか。

いんじゃんほい。
陰金田虫。
しらみ。小結。金の玉。勘当。きんちゃく。イリギリス。
うんぱの王は三戸の箱舟。
禁断の馬は、空の方舟。

方舟は金ちゃんファミリーか?

いじらしい。気味悪い。カンジタ。するめ。たこは無視。

きにいらなければ、さばを食え。

スルメイカは天動説にのっとって北上していった。
みみずくは宗教学者ではない。
りんどうは植物だけどいみじくもうるわしいかけがえのない馬。

まあそんなところだ。

いまいましい

なぜ「き」なのか。

青でもいいんじゃないか。

赤でもいいんじゃないか。

でも、き、なんだね。

きのこのきだね。

猟奇のきだね。

キングダム オブ へヴン

なんのこっちゃ。

しぶしぶ

生まれ変わったときのことを考えていました。

今日からおよそ半年前、そのときはありました。そのときにはそうやすやすと生まれ変わるものか、なんて思っていたのですが、からからと鳴り響く地平線は、空を覆い隠して、なおかつそこにたたずんでいるのでありました。

裏返った身体、破裂した内臓、テセラック。

いきなり関連するいくつかの物事。

裏返ると飛び出せ青春。

ルーリードも言ってたね。

2007年11月6日火曜日

くるまざに

座って、遠くを見通す。
君の視線は、はるかに僕を通り越して、様々な物象へ注がれているのか。
それとも、そこには、それなりのわけがあるのか。
禁じ手と呼ばれる所以は、因果関係とはかかわりなく、ただ過ぎ行くものに思えてならない。
いくばくかの自然と人類の相関関係は、意味不明の文章によって説明されるべきではない。
今しがた僕が語ったことの多くが、単なる戯言であるとしても、信じようと、信じまいと、それは続いていることなのだという事実。
いましがた、それを、許すか許さないかを問うべきではないと申し上げた事実を、肝に銘じて、君から授かるすべての言葉に、あえて物申して行かんと欲す。

しれしれ。

2007年10月29日月曜日

じみじみと2

近所の叔母ちゃんに、なんかいわれたなっと思ったら、死んだ振りしたお化けが出てきたような、ナンセンス。聞いたこともないし、みたこともない。信じられないかもしれないが、近所の叔母ちゃんは実在したのであり、それぞれの今後を分かち合うためには必要だったのかもしれないと、今になって思う。

君が信じた何かのために、僕が黙って、請負人をやることは許されることではないだろうし、ましてや、言い訳がましいかもしれないが、君臨する王のために、自らの命を張るほど、私は愚か者ではないのだ。

信じてほしい、でも、運命は反時計回りに公転しており、近所の叔母ちゃんほど卒がない人もまたいないのだ。

忌み嫌うもののために生きることは、たやすいことではないかもしれない、でも運命を逆手にとって生きるよりはましなのかもしれない。

ミミコウで食べたカレーうどんの味は忘れられないが、それ以外の事はどうでもいいと思うこともある。
しかし、そこに見いだされる生き様は、なんとも無残なものであり、信頼回復のためのいかなる手段もとりがたいというほかないだろう。

字余り。

しみじみと

福山雅治はテンガさんと呼ばれていたらしいが、金さん銀さんが生まれたころには、金銀財宝は夢のまた夢だった。

信じられないかも知れないが、インチキくさい日々の泡にこそ、それがあるのかもしれない。

しびれる今生のいきどおりとやるせなさが渦巻く、三冠の引き際に、しばしば見られる紅の豚は。

早くも、僕の中で、大きく育っているのだった。

ビバ。

ひさびさに

あえてうれしいやら、悲しいやら。

いろんなことを思い出しながら、現在のわれわれの事を考えているような、考えていないような。

暇な時間は、特にだらだらと過ぎていくものであり、それがむしろ楽しかったりするわけで、

今以上にすばらしい日々を求めて、いたづらに右往左往するよりは、日々の暮らしの中から生まれいづる、様々な思いに一陣の風を吹き込みながら、生きていくことが大切なのだろう。

君と僕もまた、友達同士なのだから、くんずほぐれつ微々たる事象に、紆余曲折を感じながら、精一杯生きて楽しもうじゃないか。

生まれてこの方、幸せというものから見放されたことのない僕らが、それを実感することは非常にたやすいはずだ。

次号を待て。

2007年10月25日木曜日

スカッとしない

損をするだの得をするだの、考えてみたところで仕方がないのかもしれないが、
気分が悪いものは仕方がない。

地道に苦労してやっていく気持ちは忘れてはならない。

滋賀県にも行って見なければならない。

気配りは大切。

でも、美意識も大切。

びりびりきた。この感触。見たぞ、とったぞ、この感触。
きりきり舞いの、べーたべた。

意味なし、落ちなし、やまなし。
あー。

ただれる。

2007年10月24日水曜日

しめしめ

かおる君が、
かおる君が、参加した、先のパーティは、散々なものであったが、
瑠璃色の髪に、金のアクセサリーを飾った、豪奢な女は、
遠目に見て、勃起するほどの、なんとも言いがたい色気を発散していた。

女呼んで、揉んで抱いて、なめなめしたいところではあるが、
そういった身分でもないし、実際始まってみればどうってことなかったりするので、
まあ、そこはそれ、思いに任せて、創作創作。

2007年10月23日火曜日

無謀さ

この戦いが無謀であるということに気づいているとき、努力の向く方向はどちらなんだろうか。
知りたいこと、知らなければならないこと、覚悟しなければならないこと、生きること。

しばしば訪れる不安と、決意の波を、乗り越えるために、今できることはなんだろうか。

体力づくり、資料集め、感性を磨くこと、ためらわないこと。

たぶんそんなところだろう。

急ぐにも急げない、回り道していくしかない。

あせらないことを肝に銘じて。

2007年10月22日月曜日

参考までに

君が代を懐かしい響きとは誰も言ってなかったような気がするけれど、実際私が書いている音楽は、何の普遍性も持たないことは、すでに自明の事実ある。

別に君が代斉唱の国家主義的側面を論じたいと思っているわけではありませんが、歌が内発的に、ある条件の下で、あるとき出来上がる可能性があるのと同じく、既存の歌を歌うことには、その歌を今のものとして有らしめる作用とともに、その歌を生きることを後押しする作用もあるのだなと、思ったりしたわけです。

それを踏まえたうえで、君が生まれてきた瞬間に信じていたものは、当に存在していないのであり、真に重要な未来が存在するとして、それは、静かで、穏やかなものに違いないだろう。生まれつき、定められた、さまざまな出来事があるとして、禁じ手といえる何かを成り立たせているのは、君の倫理だろう。そう、海に投げ捨てられたサザエの殻のごとく、しみじみと懐かしさに浸っている暇などないのだ、日々移り行くあらかじめ想定された出来事に耐えること、それもまた、散々けなしてきた何かに対して、一塵の影を与える作業に他ならないだろう。禁じられたこと、禁じること、しびれること、生まれ出ずること、金銭的なこと、精神的なこと、あいまいなこと、信じられること、親近感が沸くこと、戒められること、遠い花火のこと、ああ、それは勇ましくもたけり狂い、生き生きと存在することを意味するだろう。微々たる問題、しかしくまなく張り巡らされた存在。いいだろう。そうだろう。

2007年10月14日日曜日

いかれたベイベー

当に醒めていた熱のために
あらぬ方向に夢を見出すことが
はたして無駄なことだろうか
君にははげましてもらったし
ぼくは今も君を必要としているし
でも、信頼という名のあらかじめ用意された憶測を
信じ続けることには意味があるのだろか
散々悩んだ挙句にたどり着くのは
いつでも君の顔だったよ

2007年10月12日金曜日

雨のそぞろ歩き

縞々の藪は あるべき姿に
あれよあれよと すりべっていったのだ
意味深なサバイバルゲームの末
生き残ったのは一匹の猿だった
まさにその瞬間 敗れた者たちの雄叫びは
島の棟梁によって 海に葬られたのである

書いてみる

 30歳、男性です。
 ただいま、就職活動中で、人間関係とか面倒くさいと、早くも思い始めたところだったんだけど、そう思わずに受け入れてみると、結構いろんなことが見えてきたりして、そうすると、日常の瑣末なことを、書き綴りたいとも思うようになり、こういう事ってモラトリアムだなーと思いながらも、そこを経てこなかった私としては、いまさらながら、書いてみようと思った次第です。
 これを読まれた方、思うところがあれば、何かコメントいただけるとうれしいです。