2008年8月29日金曜日

仕事のことを考えると

今私が言語化できることの全て、が私の能力だと考えると、やはり日々の作業の中で勘を鈍らせないことは非常に重要なことだろう。

ひらめきと、体系的な知識の両方を活用して、はじめて納得は生まれるような気がするし、おそらくそのためには作業と反省の反復がどうしても必要になってくる。

体系的知識とは知識を蓄積、整理、活用して初めて身につくものであって、まったくもって、客観的なものとはいいがたく、それを勘違いしないことが大切だろうな。

リラックスと緊張の切り替え

気持ちの切り替えが下手だと感じる。

今はリラックスする時間ではない。

今は緊張する時間ではない。

それは判っていても、その場で解決しておかなければ、あとで思い出せないような気がしてしまう。

そうしているうちに、自分の生活のリズムと、考えるペースが合わなくなってくる。

早すぎて遅いのか、遅すぎて早いのか、よくわからんけど、つまり速度で説明してもあまり意味ないのかな。

自分が何かをわかっていると思い込まないことが大切なのだとすると、その場でできることは限られているし、それが人に迷惑をかけることなのだとすると、相手にされなくなることもあるかもしれない。

だったら、中途半端に続けるよりも、ばっさりと切り捨てて、細々と生きていくしかないのだろうか。

師匠の言葉、接続せよ研究機械

やっぱりよくわからんね。

知識は増やしたほうが良いだろうし、考えられるときは考えよう。

2008年8月27日水曜日

飽き性は直るか

怒りを殺すことと、感受性の欠如は反比例の関係にあると思う。
個人的には。

それはそれとして、僕が生きていることには何のメリットもないわけであるが、かといって、僕の趣味がそれで変わるわけではない。

意味はないのかもしれないけれど、混乱した意識のなかからただたれ流れてくる言葉の端々に、奇妙な関連性を見出そうとする、一連の発散作業は、僕にとって非常に重要なことなのだ。

乱れ打ちする言葉のなかから、なかからというか、乱れ打ちする言葉を誰かが受け取るはずもなく、また、うけとってはならない。それは、死を意味する。大げさに言えば。。。

闇雲に仕事をこなしていくことに何のメリットもないだろうかあるだろうか。

幸せへの渇望を長々と耽溺すべきものとして享受することは、はなはだ、いかれた物言いのように思える。すなわち、交通事故で死なない限りは、何らかの感動も、そこに用意されるに違いない。

みだれても、くずれても、いかがわしい幸せなどは何もないといっていい。

今日の夕食は何にしようか。。。

米にするか、麺にするか。
米だろうな。
そういえば、そろそろ米がなくなってきていた。
今日は米を買おう。

なす食おう。
チーズのせて焼くか。
あと、きゅうりとトマトも。
これは生で。
それからキャベツを炒めよう。

うん。

そうすると、汁物が必要になるね。

懸案のつみれ汁にしよう。

それでいいかなー。

いいだろう。
そうだろう。

2008年8月20日水曜日

青唐辛子の食べ過ぎに注意

支離滅裂、断続的生活のなかで、ゆったりとした空気に浸るここちよさ。
贅沢な話だとは思いつつ。

さてでは、次の一手は?

洗濯。
かたづけ。
そうじ。
夕食の準備。

とにかく物が多い。

整理もできてないし。。。