2007年12月28日金曜日

狂い咲きサンダーロードのマタニティドロップ

食いしん坊であることと珊瑚礁の保護に努めることの間には、構造的同一性があるのかないのか、待ってみなくちゃ判らないことの方が多いかもしれないのに、らんらんと光り輝くオーラの先に見えるのが、一片の詩であって何が悪いのか、悪くないのか。むかしから僕はそういうところがあったのだ。みんないきているのだな。苦し紛れの戯言に多くの時間をかけすぎた。無為の過剰は狂い咲く椿(団十郎とは関係ないだろう)のように、惚れ惚れとするクロニクルを展開し、そしてまたはじけた。無駄な努力としりつつも、苦労して積み上げたいろいろなものを、あえて無視し続けることは不可能に近い。あえて、これといって無理もないさまざまな劇場に身を任せてこそ、天稟この上ない日常にも一条のひかりあるらむ。

狂い酒。サンダーロード。

蟷螂拳法

ござるでござる。
ラッキー池田の横には蟷螂の着ぐるみを着た関根勉が、いかにもうれげに、しかし真剣なまなざしで、鎌をふるっている。

むなしいだけの無駄な世界ではなく、無意味であっても命のほとばしりを感じられる何かを求めて、皆々様方はさまよっていらっしゃるわけですが、くれぐれも水道橋博士から学ぶことを忘れてはなりません。

何を言っているのか自分でもまったくわかっていないわけですが、今日ここにあらせられる皆々様方が、特にこれといって不自由することなく暮らしていけるのは、ひとえに、苦しみの中に希望を見出して生き抜いてきた、先人たちの知恵や工夫の賜物であるといわざるをえません。

多くを学ぶことと、それを活かすことは、まったく別のことと考えられますが、そのとおりです。
角度をつけること、その先に見通す何かが存在していると知ること。
苦労して得たものが全てであると思わないこと。

カリキュラムは一定の理念と共通性を認識するためには有用かもしれませんが、結局それは非常に静的なものであり、日々の暮らしの中で起こる出来事に対して、接点を持つことも持たないこともあります。ただ、それが、別のどこかで回りまわって別の意味を持つことをご存知のはずです。

偉そうな物言いになってしまったので、これで止めます。
こういうこともあるんですね。

では。

2007年12月27日木曜日

報道2006

一年遅れてるよ。

オダギリジョーが結婚するそうで、まあめでたい。
お相手はきれいな女優さんらしい。

くるくる寿司を食べによろず気になることはほっといて、築地あたりまで出かけていったまでは良かったのだけれど。くるくるするもんだから、いつまで待っても一向に埒が明かない。見掛け倒しの妄想を追求した挙句に、くんずほぐれつもうどうにでもなれってんだったら、そんなことはじめから試みなければ良かったじゃないの。というのは人の勝手な思い込みで、これでも真剣に生きていたりいなかったり。

虫のいい話とはよく言ったもので、くいっぱぐれたらどうしようもないことは周知の事実なんですが。そこはそれおいしいものは食わなきゃならんという気持ちは抑えがたかったりするわけです。皆々様方が考えておられるほど事態は深刻ではないのですが、このままこうしているのは、どこか遠い未来で、きっと後悔しそうな気もするわけです。

無駄や不自由を気まずいながらもさまよっている大人の心もとない憂鬱をメランコリーだと言い張った当時の僕はまだまだ事態の深刻さからは程遠く、まあ、恵まれていたと考えて差し支えないでしょう。これからのわれわれは、多少の見直しを図る必要がありそうです。

なんにせよ、車にも乗れることですし。ちょっと遠乗りしてみますかね。

あらよっと。

2007年12月24日月曜日

寝汗をかいて

目覚めてみると、すがすがしい気分とともに、一抹の寂しさが残っていたのだ。
しくじったわけでもないのに、もう遠い過去になってしまった日々のことを、どうしても思い返してしまうのは、かれらと我々がともに生きた時代が、なお現在に覆いかぶさっているからだろう。

とりあえず、乗り出してみたものの、行き先不案内、かつ未熟者である私にとって、何度も連れられてきた道も、見知らぬ田舎の道にほかならず、何ゆえこんなところを徘徊しているのか、ふと自分に問いたくなるのもまた事実である。

訓練された盲導犬のように忠実な親父がいたとして、それが遠くへ行きたいと願っていることに気づけなかった自分を悔いる子供のような、いかんともしがたい、うん、まさにいかんともしがたい、流れを感じつつ、音楽に希望を見出した実相寺氏の当然とも言える憂鬱と、情熱に心打たれるクリスマスイヴってか。

2007年12月22日土曜日

バナ

フランキー堺の赤かぶ検事の事件簿をかなり昔から気になってみていた。
だいたい、赤かぶだの赤髭だの、私は赤はすきではない。
どういうつもりかしらんが、ライブハウスの天井に猿を放し飼いにしている悠長な男が、無理やりそのビデオを見せてくれたのがきっかけだ。
クレイジーな男だったが、いつも寂しそうに遊びにやってきては、人の迷惑顧みず、派手に暴れて去っていく哀愁を持ち合わせてもいた。

とんのの牛はよく鳴くことで有名だ。
万華鏡の三々七拍子に聞きほれていて、今まで気づかなかったような、いろんな出来事に翻弄されて毎日が過ぎていく。
もう、誰も帰って来いとは言わないのだろうけど、無理から何かを育てようとしている節がなくもない。
とりあえず、これといって、たいしたこともできないわけだし、生んでくれた親に対する義理も忘れているわけではないので、そこんところうまくいけばいいなと思っている今日この頃です。

2007年12月16日日曜日

たまたま

すがすがしいという言葉がしっくりとくる目覚めでした。
気持ちのいい一日を過ごせそうです。

こんな日は牧歌的な音楽を聴きながら、茶でもすすってのんびりしたいところです。
いや、こんな日だからこそ、外に散歩に出かけるのもいいかもしれません。

迷いながら、部屋をうろついていたらもう二時です。

昼寝でもするか。

2007年12月14日金曜日

ナイロビの

さらさらヘアーは山岳地帯の風とともに、カラスの鳴き声を飛ばしてきた。
投げつけられた歌声は、激しい風を切って、さらに高みへと上っていったのだ。
からすとキリギリスは遠い日の花火ではないと、まんざらでもない声を出しながら、まざまざと見せ付けられる魂の叫びのような、胸騒ぎのような、坩堝の中で、何かが待っているのかもしれない。

有名無実のある時期に、狂い咲くように飛んでいった饅頭のような引きこもりの男は、むなしい雄たけびを上げて、そらに飛んでいったのである。

むんむんと届く暖かい風を体に感じながら、坩堝の中に身を投げること、そして、顔を出していることが、もっともありがたい存在感の証明であるのだろう。

アラーキー・イン・ザ・ユーケー

うらぶれた宿の尊敬

朗々と憧憬

意味不明でオーケー

んー。

2007年12月12日水曜日

mizumi

2007年12月9日日曜日

隅々まで効く

バルサン。

勘当するもしないも、寒暖差がかもし出すオーロラのごとく、キャッチーなフレーズの存在を、往々にして欽ちゃんファミリーの終焉だけが認めている感動とともに、ミラクルを起こす時のみ、ありえる話だと思う。

今日ここにおわします、私=彼は、ラッキーな星の元に生まれました。というのも、そもそも誕生とともに、きぐるいじみたわが身の不幸を呪ったことは、いままで一度としてなかったからであります。無駄に生きていくというナンセンスな考えにとらわれたとき、彼は初めてそれを体験しました。つまり、人であることに疑問を抱いてしまったわけです。もっといえば、彼は彼が人であることに気づいてしまったわけです。遅かれ早かれ、それは訪れるものなのかもしれません。しかし、彼がそうしている間にも、遠くで星が瞬いていることがわかったのです。まさにピーターパンです。

ここで、彼は腹をくくることを決意しました。しかし、それがどういうことなのかは、いまだ理解できていません。しかし、彼はそれを問い続けていくことになりそうです。しばらくの間、もうどうすることもできないと思い悩んだようです。でも、彼は考えることをやめようとは一度も思いませんでした。だから彼はこう思いました。

ルイーじもーくドールシックスせんじょうみんかんじくりとまんだらゆうとみんだなえん。

アン・ドゥ・トロワとは行かないまでも、むしろ円環構造状のたらたらと流れる無の状況は、キスをしたときの無駄な憂鬱に良く似ています。この甘美な身体は、欄干のカムランブラウンの様に、ありふれた日常に生まれたばかりの故郷の味を、とうとうと語って聞かせるだけの、うまみをもったアナロジーであります。

そうです。彼が誕生したときには、まだ世界はありませんでした。なぜなら、彼と彼女の存在は未だ出会ってはいなかったからです。無人君と安易な道のりは、同じようで、また違うようで。それなりに楽しいものであるかもしれません。

とうとうと書き綴ってきましたが、しみったれたわが身の不幸を呪って生きるよりは、無駄とは思いつつも欄干のカムランブラウンのように、想像のダイナミズムのなかに身をうずめることに、何かを見出したと考えられなくもないと思います。

そういうことです。

2007年12月8日土曜日

散切り頭と鯉の鼻は万に一つの無駄もないのだ

倉敷あたりでばったり会ったら、しんしんと降る雪を堪能したかったものです。

繰り返し、でてくる月ですが、蜻蛉のごとく過ぎ去っていく、想像の産物にいまだに振り回されているようでは、何もかもお釈迦になってしまいます。

くれぐれもお気をつけて。

2007年12月7日金曜日

発展

感謝の気持ちとともに、様々な思惑がそこに潜んでいるのは、常であり。
そこに登場するめいめいのキャラクターと緊張は、物語を形成するためにはどうしても必要なものである。

物語のとともにしか、意識の継続が難しいと誰かが言った。だとしたら、そこに、出来事が必然的に起こることもうなずけるような、うなずけないような。

みんながみんな、それを感知して行動しているわけではないとして、構築からの逸脱と、一貫性の共有はそれこそ膨大な知識と偶然が重なり合った果てに、まさに奇跡的に発生するものとしか言いようがない。そのような奇跡をかつて人々は、書きとめて神に捧げたそうです。

2007年12月4日火曜日

簡単に

壊れた。
もろいものだねぇ。

青い空気や、それなりの、なんかいいものたちは、手元を去っていきました。
これから、彼らに会うことはもうないかもしれませんが、みなさんお達者で。

かつて感じていた、興奮や、暖かさや、悲しさや、恐ろしさを、同じ強さと幅で感じることはもうないでしょう。

それは、誰かに教わったものであり、そのときのすべてであり、そして二度とないものであります。

旅の締めくくりにふさわしい、何かそういったものを計画しています。

おせわになりました。

2007年12月3日月曜日

ぬるぬる

ぽんとでました。

パンダの赤ん坊は、さんさんと降り注ぐ太陽光に照らされて、光り輝く銀の斧を手に持ち、しばしば訪れる軽い憂鬱に浸っていたまでは良かったのですが、しみじみと気持ちの整理をつけながら、ラリった赤ん坊のようにたどたどしい日本語で、サンバのリズムを口ずさむ快感に打ちひしがれて、みんなが搾り出した知恵をむさぼる亡者のごとく、申すまでもないことを、悶々と考えることは、あくまでも個人的な活動だもー。

2007年12月2日日曜日

模型の現実

立体的思考とストラテジーの違いは何か。
皆がそれを認めないのはなぜか。

受け止める精神力が、形にならないのはなぜか。

タフネスはどうすれば得られるか。

りんときんきんに冷えたビール飲みたい。ミミズクの羽ばたきのように軽やかに、ひそやかに、えろちっくに。