2007年10月29日月曜日

じみじみと2

近所の叔母ちゃんに、なんかいわれたなっと思ったら、死んだ振りしたお化けが出てきたような、ナンセンス。聞いたこともないし、みたこともない。信じられないかもしれないが、近所の叔母ちゃんは実在したのであり、それぞれの今後を分かち合うためには必要だったのかもしれないと、今になって思う。

君が信じた何かのために、僕が黙って、請負人をやることは許されることではないだろうし、ましてや、言い訳がましいかもしれないが、君臨する王のために、自らの命を張るほど、私は愚か者ではないのだ。

信じてほしい、でも、運命は反時計回りに公転しており、近所の叔母ちゃんほど卒がない人もまたいないのだ。

忌み嫌うもののために生きることは、たやすいことではないかもしれない、でも運命を逆手にとって生きるよりはましなのかもしれない。

ミミコウで食べたカレーうどんの味は忘れられないが、それ以外の事はどうでもいいと思うこともある。
しかし、そこに見いだされる生き様は、なんとも無残なものであり、信頼回復のためのいかなる手段もとりがたいというほかないだろう。

字余り。

しみじみと

福山雅治はテンガさんと呼ばれていたらしいが、金さん銀さんが生まれたころには、金銀財宝は夢のまた夢だった。

信じられないかも知れないが、インチキくさい日々の泡にこそ、それがあるのかもしれない。

しびれる今生のいきどおりとやるせなさが渦巻く、三冠の引き際に、しばしば見られる紅の豚は。

早くも、僕の中で、大きく育っているのだった。

ビバ。

ひさびさに

あえてうれしいやら、悲しいやら。

いろんなことを思い出しながら、現在のわれわれの事を考えているような、考えていないような。

暇な時間は、特にだらだらと過ぎていくものであり、それがむしろ楽しかったりするわけで、

今以上にすばらしい日々を求めて、いたづらに右往左往するよりは、日々の暮らしの中から生まれいづる、様々な思いに一陣の風を吹き込みながら、生きていくことが大切なのだろう。

君と僕もまた、友達同士なのだから、くんずほぐれつ微々たる事象に、紆余曲折を感じながら、精一杯生きて楽しもうじゃないか。

生まれてこの方、幸せというものから見放されたことのない僕らが、それを実感することは非常にたやすいはずだ。

次号を待て。

2007年10月25日木曜日

スカッとしない

損をするだの得をするだの、考えてみたところで仕方がないのかもしれないが、
気分が悪いものは仕方がない。

地道に苦労してやっていく気持ちは忘れてはならない。

滋賀県にも行って見なければならない。

気配りは大切。

でも、美意識も大切。

びりびりきた。この感触。見たぞ、とったぞ、この感触。
きりきり舞いの、べーたべた。

意味なし、落ちなし、やまなし。
あー。

ただれる。

2007年10月24日水曜日

しめしめ

かおる君が、
かおる君が、参加した、先のパーティは、散々なものであったが、
瑠璃色の髪に、金のアクセサリーを飾った、豪奢な女は、
遠目に見て、勃起するほどの、なんとも言いがたい色気を発散していた。

女呼んで、揉んで抱いて、なめなめしたいところではあるが、
そういった身分でもないし、実際始まってみればどうってことなかったりするので、
まあ、そこはそれ、思いに任せて、創作創作。

2007年10月23日火曜日

無謀さ

この戦いが無謀であるということに気づいているとき、努力の向く方向はどちらなんだろうか。
知りたいこと、知らなければならないこと、覚悟しなければならないこと、生きること。

しばしば訪れる不安と、決意の波を、乗り越えるために、今できることはなんだろうか。

体力づくり、資料集め、感性を磨くこと、ためらわないこと。

たぶんそんなところだろう。

急ぐにも急げない、回り道していくしかない。

あせらないことを肝に銘じて。

2007年10月22日月曜日

参考までに

君が代を懐かしい響きとは誰も言ってなかったような気がするけれど、実際私が書いている音楽は、何の普遍性も持たないことは、すでに自明の事実ある。

別に君が代斉唱の国家主義的側面を論じたいと思っているわけではありませんが、歌が内発的に、ある条件の下で、あるとき出来上がる可能性があるのと同じく、既存の歌を歌うことには、その歌を今のものとして有らしめる作用とともに、その歌を生きることを後押しする作用もあるのだなと、思ったりしたわけです。

それを踏まえたうえで、君が生まれてきた瞬間に信じていたものは、当に存在していないのであり、真に重要な未来が存在するとして、それは、静かで、穏やかなものに違いないだろう。生まれつき、定められた、さまざまな出来事があるとして、禁じ手といえる何かを成り立たせているのは、君の倫理だろう。そう、海に投げ捨てられたサザエの殻のごとく、しみじみと懐かしさに浸っている暇などないのだ、日々移り行くあらかじめ想定された出来事に耐えること、それもまた、散々けなしてきた何かに対して、一塵の影を与える作業に他ならないだろう。禁じられたこと、禁じること、しびれること、生まれ出ずること、金銭的なこと、精神的なこと、あいまいなこと、信じられること、親近感が沸くこと、戒められること、遠い花火のこと、ああ、それは勇ましくもたけり狂い、生き生きと存在することを意味するだろう。微々たる問題、しかしくまなく張り巡らされた存在。いいだろう。そうだろう。

2007年10月14日日曜日

いかれたベイベー

当に醒めていた熱のために
あらぬ方向に夢を見出すことが
はたして無駄なことだろうか
君にははげましてもらったし
ぼくは今も君を必要としているし
でも、信頼という名のあらかじめ用意された憶測を
信じ続けることには意味があるのだろか
散々悩んだ挙句にたどり着くのは
いつでも君の顔だったよ

2007年10月12日金曜日

雨のそぞろ歩き

縞々の藪は あるべき姿に
あれよあれよと すりべっていったのだ
意味深なサバイバルゲームの末
生き残ったのは一匹の猿だった
まさにその瞬間 敗れた者たちの雄叫びは
島の棟梁によって 海に葬られたのである

書いてみる

 30歳、男性です。
 ただいま、就職活動中で、人間関係とか面倒くさいと、早くも思い始めたところだったんだけど、そう思わずに受け入れてみると、結構いろんなことが見えてきたりして、そうすると、日常の瑣末なことを、書き綴りたいとも思うようになり、こういう事ってモラトリアムだなーと思いながらも、そこを経てこなかった私としては、いまさらながら、書いてみようと思った次第です。
 これを読まれた方、思うところがあれば、何かコメントいただけるとうれしいです。