2008年2月27日水曜日

のんのん

くるしまぎれに開き直ってみたけれど、そう物事はうまくいかないもので、それはそれで、当然のことと受け入れられそうな気もするけれど、そのあとどんなもんだろうね。

そんなことを考えているわけだから、いまのところまだ余裕があるのかな。

こうなったら、やることなすこと、ねこまっしぐらかもしれんけど、どうなんだろうね。

はっきりとした確証がないんですよね。
たしかに。

でもね。

しぶしぶながらも、いるところにいなきゃーさ、仕事になんないしさ、立ち向かうしかないじゃないですか。
そんなところじゃないんでしょうか。

2008年2月25日月曜日

わすれていた。

今日は叔父が癌の切除手術を受ける日でもあったのだ。

ご無事で。
こういうときはそういうらしい。

しかし、がんばれと、彼にはそういいたい。
なぜなら、彼が僕には想像を絶する戦いを続けてきたことを、おぼろげながらも僕は知っているからだ。

素直にエールを送りたい。

がんばれ。

ミュージック

うるわしい、日々の追憶を書きとめ始めて、はや数年の月日はたってないけれども、そんな気になるのは、ある時期に教えられたいろんな物事の整理がついたからなのかもしれない。

今日僕は31歳になったわけだけれども、それなりの努力を惜しまない決意ができたのではないだろうか。
今選択している道が、正しい道なのかどうか、もうしばらく時間を置いて、考えていく必要があるだろう。しかし、この選択がいかなる意味を持っているのか知るためには、もうしばらく待ってみようと思っているしだいだ。

来る日も来る日も、単調な毎日を過ごすことになるかもしれない。
しかし、それを受け入れる覚悟は、今のところできているような気がするのだ。

無駄な努力と知りつつも、それを続けることに意味はないだろうか。
あるいは、あるだろうか。

時間を見失う直前にかつてみた奇跡の記憶は、今もうしなわれたわけではない。
しかし、それが奇跡と呼ぶにふさわしい、華やかさと、あたらしさを持っていたとはいえ。
僕が生まれてきた理由と呼ぶことはできないものだった。それは間違いない。

それならば、ゆーみんが歌ったように、新でも輝きはもどらないことを、真摯に受け止めて、彼らのために生きてみるもの悪くない。

そう思えた今日だった。

誕生日かー。

2008年2月20日水曜日

遊びに行くのは疲れるニャー

来る日も来る日も、体力と気力の回復を最優先に考える日々。
まさに、これ、プロレタリアートな毎日であります。

これで、何か、結果がついてくるならいいんだけど。
そんなこと言う前にやれって話でね。

意志の力が求められております。

がんばります。

あ、仕事はじまったんですよね。

2008年2月13日水曜日

うんともすんとも

いわんけど、そうでもない人が、そうでもあるひとと、何とかしたいと思ったときに、困った事態が発生するのはどういったわけだろうか。

無駄な努力としりつつも、生まれつきそうであったところの、砕けた対応を、えんえんとさせられ続けた人々は、どこからどこまで、うまれもったものであるのか、わからんといえばわからんし、わかるといえばわかるような気もするのだ。

2008年2月12日火曜日

浮遊感はあるが、これが果たして現実か?

むなしいことはないけれど、実感があるわけでもない。
特に何も問題はないような、それでいて、なにか重要なことを見落としているようなこの感じ。
いったいなんでしょうか。

ところで、下関シティには唐戸市場というところがあるのですが、そこはいうなれば魚市場です。
魚市場なんですが、二階に併設されている食堂街には観光客が多く訪れ、一般の人も市場で買い物できたりします。すし屋が人気のようですが、今日は別の食堂へ入ってみたところ、うにが一皿ついてくる、うに定食が1500円と、リーズナブルなお値段でいただくことができました。おいしかったです。ごちそうさまでした。

帰りに百貨店で靴を購入。いよいよ、来週頭から仕事が始まります。
果たしてうまくいくんでしょうかね。
うーむ。

組することのたやすさと、危険と、そして重要性について

僕がもとめていること、日々求めていることは、かなりシンプルで単純なものだ。
愛する人々が、健康で生きていてくれさえすればそれでいいのだ。

しかし、それとて、いつまでもやっていけることなのかどうか、僕にはわからない。
存在の耐え難い重さといってしまえばそれまでかもしれないが、重さは僕を死に導く気がしてならない。
しかし、同様に、軽さは、呪いを求めている気もしないでもない。非道徳性と不文律の家庭的何かを追い求めてはきたものの、どうすればこの障害を乗り越えることができるのか、だれにもわかるまい。どういった方法でそれを模索するべきか。未だ不明である

ライトな人生はまた、ヒップな人生だし、それはそれで楽しいことだと思うけれど、それは、最終的な死の局面において、僕を勇気付けるだろうか。それとも、絶望させるだろうか。

いまや、僕の走っていこうとしている先に、何が待ち構えているのか、まったくわからないのである。
いかんともしがたい、この、とらえられた問題認識において、ぼくがそれを求めているのが、わかるだろうか、わからないだろうか。

2008年2月11日月曜日

いいさ

それはそれで、なんて、のんきなこといえるわけねーだろ。

相対が実態を支配したとしても、食いつないでいくことだけで、すべてに納得するなんて事は、まだできね。

2008年2月9日土曜日

だすだすだす

ぱららんとめんてぃのあいだには、すさまじい孤独と憂鬱が待っているかとおもいきや、フラストレーションの山がそこには築かれていたのだった、むしろ、意味不明の透明な爽快感が後をおって、迫ってくることが不思議でならないのは言うまでもないかもしれない。

むしろ、君の思い出が何を指し示しているのか、僕にはわからないが、遠いところから降って沸いたようないたずらをするのは、やめていただけないだろうか。そこには、あらかじめ何も用意されてないし、うますぎるトーク番組のように、進めたいわけではないのだ。慎重に、ただひたすらに、慎重に進めることが今は求められていて、狂い咲きさんだーロードはもうまっぴらなんだな。

食いしん坊万歳ってわけではないけど、ポテトチップスをぱくつくだけで、気分は爽快。そんな時代があったのだということに今まで気づかなかったのは、幸か不幸か。

空をおって、魂を呼び起こすための、窮屈なやりとりに身を任せることが、どれほど、楽なことか、君たちにはわかるまい。そういったことが、あるときこの世から生まれ出てきた、多くの物事を、ゆるしたり、ゆるさなかったり、するかもしれないね。

話がうますぎる

誓約書と規約を精査する必要があるかもしれない。

2008年2月8日金曜日

あべこべの日常に

勝ったらかったで、何とかなるものなのかもしれんけど、どうにもならんこともあらーな。なんて、行ってみたまではよかったが、それでも、なにかしら、得るものはあったり、なかったり、そうでもなかったり。
食い尽くすとまでは行かないが、そろそろ、矢面に立たされる瞬間。機というものを知り尽くした、今の男たちの存在は、なおかつ、遠くまで、空を見渡した、雲の眼表のように、晴れ渡っていたとかいないとか。

海千山千のわが身を呪うよりは、長きに渡る荒野の如しわが人生の墓標を、打ち立てることを、何とか避けるための努力を惜しむまいと、ただただ、信ずるのみであります。

紅の豚は、ありふれた事件のあとで、想像を絶する、海の大きさに気づいたに違いない、それは、なおかつ飛行することの一端に気づいた事件だったのかもしれない。彼は飛び出さずにはいられなかったであろう。でも、うまくすれば、そういう事件に、うなずくことなく前へ進めたかもしれない、飛行気乗りたちは、海賊船に乗ったまま、海に沈んでいったのだろうか。否、そういうこともなかろう。夢にまで見た、飛行が、生まれつきそうだったかのような、沈黙を許したとしても、生まれ出る孤独を、愛していくことに、何の楽しみもないだろう。

苦し紛れの憂鬱を、なぜ、僕は許容しようとしないのか、なぜなら、それは死を意味するからである。激しく求め続けることを、やめてしまったら、それは、僕にとって何の価値もない、優れて純情な、ありがたい存在として、遠い空の向こうに羽ばたいていくものとなるかもしれない。

意味不明の戯言を、遠くの空に向かって投げつけるときの、この、なんともいえない、倦怠感と焦燥感と生活観。これが、人生の多くを占めているような気がしてならない。

なぜなら、皆が皆、空を見上げて暮らしているわけではないわけだし、苦し紛れの憂鬱と戦い続けることこそ、無限の悲しみに打ちひしがれることへ、唯一抗うすべなのだから。

2008年2月7日木曜日

削りすぎる歯医者の後で

 かつて、歯は極力削らないほうが良いという、老齢の歯科医にかかったことがあったけれど、彼の気のいい話しっぷりに、魅了されたことを良く覚えています。

 わけあって彼の医院に行くことはもうなくなってしまったけれど、ながらく検診にも行っていなかったので、仕事を始める前に行っておこうと、近所の歯科に行くことにした。
 検診の結果、虫歯はないと診断された。そのあと、彼は昔の治療跡をみて、治療が中途半端なので、削りなおして、新しい金歯を入れたほうがよいといった。そのとき、不安がよぎらなかったといえばうそになるけれど、歯の健康上、現状はよろしくないという話を聞かされると、納得せざるをえず、治療をお願いした。
 文字通り、お願いするや否や、彼は注射器を僕の歯茎につきたてた。あっという間に上あごの右半分の感覚がなくなった。麻酔が効き始めると、すぐさま手術が開始された。まず、古い治療箇所が削り取られた。そこで、手を止めた歯科医は、「やはり汚れてますね」といいながら、その周囲の歯を削って行った。僕の不安は増していった。削りすぎではなかろうかと。なんせものすごい勢いで自分の歯が減っていくように、感じられたからだ。不安ながらも口をあけたまま、されるがままだった僕は、「うーん、もうちょっと」とつぶやきながら削り続ける彼の作業の終了が全うなものであることを祈りつつ、終わるのを待った。 そして、オペレーションの終了が告げられ、うがいを促されたとき、初めて舌で削られた部分に触れたとき、小さく削られ埋められていたはずの傷口があった箇所には、大きな穴が開いてしまったことを確認し、大きな落胆を感じたのだった。
 うがいをしながら、脇に立つ助手に目をやると、彼女は手をぷらぷらさせながら、次の作業を待っていた。
 まあ、しかし、なんと仕事の速いことだろうか、レントゲンを撮って、麻酔、削り、型取りまであわせても二十分もかからなかったように思う。
 これが、いい仕事なのかどうか、素人の僕にはわからないけれど、虫歯の原因が、歯の質や、食生活や、歯磨きにあるのだとすれば、本人が食生活や歯磨きを改善しなければ、もう一度虫歯になる可能性は高いのではなかろうか。
 僕は比較的長い時間をかけて歯を磨くほうだけれど、僕より虫歯の多い人でも、僕より簡単な歯磨きで済ませる人が多い気がする。もちろん磨く時間だけが問題ではないだろうけど、多くの人は、虫歯になっても、また同じように歯を磨くし、同じように食事するんじゃなかろうか。特に大人は。
 削ってもまた虫歯になるなら、大切な歯を急いで削ってしまうことはないんじゃなかろうか。虫歯にもなってないのに。

もういかね。

ありとあらゆるものを包含しても、それが何かを証明するわけではけっしてない

むしむしとした夏も、暖かい冬も、それはそれでいいものだけれど、きんきんに冷えた冬の一日も、冴え渡るひと時を与えてくれるという意味では、非常にありがたいものだということに最近気づきました。

フレームワークを評価する際に注目すべき点は何か?

・作業環境の構築と、解体は、頻繁に簡単に行えるほど、思い切った作業をしやすいので、できるだけ準備が簡単なものを用意すべきだし、できるだけ依存するものを減らすべきだ。依存するものとは、言語のバージョンや開発環境、データベース、バージョン管理システム、ビルド環境等がそれにあたると思われる。

・テストが簡単にできるものが良いので、モックやテストデータを簡単に作れるものがよい。つまりフレームワークなしでも起動が簡単にできるような、インターフェースを実装すべきだ。

・直感的な操作で作れるものがよい。ただし、これは、上記の二点とトレードオフにする場合には、慎重になる必要があるだろう。なぜなら、開発担当者はそもそも実装能力を持っているわけだし、開発手法にもなれたものを使ってもらうことは、プログラミング工数を減らすことよりも、生産性を挙げることも多いからだ。なにより、作業時間が計算しやすいというのは、開発者に余計なストレスをかけずにすむ。ユーザビリティを追求するからこそ、開発者の能力を見極めて信頼することはとても重要なことだ。

・メンテナンス性に優れているものがよい。フレームワークに限られた話ではないが、部品化と一般化は特にフレームワークのような、多彩な要求への対応を要求される部分には重要だろう。

・リソースの仕様はできるだけ抑えられたほうがよい。これは、起動時間を含めて、動作に時間がかかったり、大量の接続を受け付けた場合に、システムがダウンしてしまってはお話にならないので、当然といえば当然なのだけれど、やっぱり重要なので、そして、プロジェクト終盤になって問題になったりするので、挙げておきたい。

言葉にするとどれも簡単そうだけど、大規模システムでは、なかなかそうは行かないよね。なんででしょうな。

2008年2月4日月曜日

やっぱり言われることは言われる

好きにやってんねやからほっといてくれよというのは僕の都合で、やっぱり不思議と生きるのがつらいと思わされる。これが社会というものか。

しかし、生命活動が、複雑な形のピースの組み合わせによって形成された、ジグソーパズルのようなものだとするならば、そこにうまくはまることができない人がいることは、別に不思議なことではない。だからこそ、これだけ愛が叫ばれるのかもしれない。

優秀な職工と呼ばれる人たちの給料が安いのは、非常に不当であるが、いかんともしがたいところなのかもしれない。

2008年2月1日金曜日

真意を伝えること、すなわち自己主張すること

悩んだ挙句、結局、営業担当者に相談することにした。

Aさんの話では、僕とAさんを同じ現場にいれる方向で話を進めているということだが、僕は仕事の開始時期に一番のプライオリティーがあるので、別の現場でもかまわないと。

返答はこうだった。

・僕の自宅から近い職場を基本に職場を探している。Aさんの自宅から僕の自宅は遠いので、セット出なければ仕事がない説は、いまのところなし。
・それがむつかしければ、Aさんが今働いている職場と同じ職場の案件を紹介しようとしている。
・これが現段階で一番早く仕事が始められそうな方向である。僕の真意が伝わっていなかったわけでもなかった。

納得。

結局自分の真意を率直に伝えることで、この局面はのりきれそうだ。しかし、教訓として残るものがいくつかあるような気がする。

まず、問い合わせようと思い立ったのは、Aさんからのメッセージに返答したかったからだ。そう、彼とのコミュニケーションを円滑に行うために、必要なことだと判断したからそうできた。つまり、聞き流さなくてよかった。それから、自分の要求しているものをできるだけ忠実に率直に伝えたこともおおきかった。二つとも当たり前のことなのかもしれないが、結構時間がかかったよ。

神経質になる必要はないが、事実は受け止めなければならない

題目のとおりだ。

どう受け取るか、そこに大きな問題がある。
性急に、厳密に考えすぎると、たいてい良くない発想をしてしまうものだ。

考慮すべき要素は無限にあり、一方でなにもないとも言える。

だったらどうすりゃ良いんだと、思ってしまうが。
そこを踏みとどまって、いい落としどころを見つけるのが、生きるための努力ということなるのだろう。

さて、良い受け止め方とは、いかなるものだろうか。
具体的な問題としてしか考えることができない場合は、具体のまま、生のまま扱ってみよう。

ある知人が先ほど電話をしてきたのだが、彼は僕がはじめようとして、うまくいかなかった仕事の件で電話をかけてきたのだった。彼をAさんとしよう。その仕事自体、さる営業筋からの仕事だったのだが、その営業筋を紹介してくれたのがAさんだったことがあり、仕事が始まるまでの状況を報告することにしていたのだった。仕事自体は、残念ながら先方と開始時期の折り合いがつかず、破談になってしまったのだが、それを聞きつけたAさんは、僕に連絡してきてこういった。

「営業の人は、今、僕(Aさんのこと)とセットで入れる仕事を探しているらしい」

つまり、僕とAさんが同じ職場で働けるような仕事を探してくれているという話なのだと思う。

僕は深くは考えず、聞き流して電話を切った。

確かに僕としても、Aさんが同じ職場にいれば、心強いことこの上ない。ただ、僕としては早く仕事を始めたいわけで、Aさんのスケジュールに合わせて、仕事の開始が遅れるようであれば、別の職場でもかまわないと思っている。では、僕の真意が伝わっていないのか?それとも、Aさんと一緒でなければ、仕事を任せることはできないと判断されたのか?それとも、他の意図があるのだろうか?この疑問を直接営業担当者に問い合わせるべきか、それとも、次の連絡を待つべきか?

あるいは、話に尾ひれがついたと捕らえて、流すか?