2008年2月8日金曜日

あべこべの日常に

勝ったらかったで、何とかなるものなのかもしれんけど、どうにもならんこともあらーな。なんて、行ってみたまではよかったが、それでも、なにかしら、得るものはあったり、なかったり、そうでもなかったり。
食い尽くすとまでは行かないが、そろそろ、矢面に立たされる瞬間。機というものを知り尽くした、今の男たちの存在は、なおかつ、遠くまで、空を見渡した、雲の眼表のように、晴れ渡っていたとかいないとか。

海千山千のわが身を呪うよりは、長きに渡る荒野の如しわが人生の墓標を、打ち立てることを、何とか避けるための努力を惜しむまいと、ただただ、信ずるのみであります。

紅の豚は、ありふれた事件のあとで、想像を絶する、海の大きさに気づいたに違いない、それは、なおかつ飛行することの一端に気づいた事件だったのかもしれない。彼は飛び出さずにはいられなかったであろう。でも、うまくすれば、そういう事件に、うなずくことなく前へ進めたかもしれない、飛行気乗りたちは、海賊船に乗ったまま、海に沈んでいったのだろうか。否、そういうこともなかろう。夢にまで見た、飛行が、生まれつきそうだったかのような、沈黙を許したとしても、生まれ出る孤独を、愛していくことに、何の楽しみもないだろう。

苦し紛れの憂鬱を、なぜ、僕は許容しようとしないのか、なぜなら、それは死を意味するからである。激しく求め続けることを、やめてしまったら、それは、僕にとって何の価値もない、優れて純情な、ありがたい存在として、遠い空の向こうに羽ばたいていくものとなるかもしれない。

意味不明の戯言を、遠くの空に向かって投げつけるときの、この、なんともいえない、倦怠感と焦燥感と生活観。これが、人生の多くを占めているような気がしてならない。

なぜなら、皆が皆、空を見上げて暮らしているわけではないわけだし、苦し紛れの憂鬱と戦い続けることこそ、無限の悲しみに打ちひしがれることへ、唯一抗うすべなのだから。

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