2007年10月22日月曜日

参考までに

君が代を懐かしい響きとは誰も言ってなかったような気がするけれど、実際私が書いている音楽は、何の普遍性も持たないことは、すでに自明の事実ある。

別に君が代斉唱の国家主義的側面を論じたいと思っているわけではありませんが、歌が内発的に、ある条件の下で、あるとき出来上がる可能性があるのと同じく、既存の歌を歌うことには、その歌を今のものとして有らしめる作用とともに、その歌を生きることを後押しする作用もあるのだなと、思ったりしたわけです。

それを踏まえたうえで、君が生まれてきた瞬間に信じていたものは、当に存在していないのであり、真に重要な未来が存在するとして、それは、静かで、穏やかなものに違いないだろう。生まれつき、定められた、さまざまな出来事があるとして、禁じ手といえる何かを成り立たせているのは、君の倫理だろう。そう、海に投げ捨てられたサザエの殻のごとく、しみじみと懐かしさに浸っている暇などないのだ、日々移り行くあらかじめ想定された出来事に耐えること、それもまた、散々けなしてきた何かに対して、一塵の影を与える作業に他ならないだろう。禁じられたこと、禁じること、しびれること、生まれ出ずること、金銭的なこと、精神的なこと、あいまいなこと、信じられること、親近感が沸くこと、戒められること、遠い花火のこと、ああ、それは勇ましくもたけり狂い、生き生きと存在することを意味するだろう。微々たる問題、しかしくまなく張り巡らされた存在。いいだろう。そうだろう。

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