忌々しい限りの、日々の戯れに、生真面目な新幹線のダイヤのように、微塵も残っていない、関係性の飛騨をかんがみて、望むべくは、幸せであり、なにもかもそこに仕事がないことにゆらいするのか、しないのか、皆がみな行き止まりの快楽を禁止しているかのような、しらっばっくれた期待通りの身近な身辺の整理。
難しいことは何も判らないけれど、みんながみんなそれを期待しなくてもいいはずなのに、それを上手く使っていけないのは、単にそれが禁断症状に近いからなのかもしれない。
ぬかるみのなかで、いけたものと、いかれたものの、みじかな存在をうつうつと感じて置くのは、民衆心理の問題なのかもしれない。
10年後にはこの国は壊れてしまっているだろうと、ある人が言っていたけれど、あながち間違った話でもないように思う。
とんとん拍子で何かが進むはずもなく、ただ単にしんどいだけでもないだろう。
幸あれ。
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